日本古代史解明の補助線(4)::邪馬台国は東遷していない3(傍証としての「日本書紀」【583】の続き)

伊藤 投稿日:2025/01/08 10:11

伊藤睦月です。あくまで傍証ですが、日本書紀は、「東遷」よりも「大和国西征」の方を重視している、といえる。

1 日本書紀(以下「書紀」という)には、「東遷」を思わせる記事が3回(実質1回)しかないが、「西征」の記事  回あり、記述内容もより筋道経っている。

1-(1)東遷記事

①神武東征

②神功皇后・応神大王の大和帰還

③壬申の乱

伊藤睦月です。岡田英弘博士は、上記②と③の行程を合わせると、ほぼ①の行程と重なることから、①は、②、③の史実を反映させたフィクションであろうとしている。(『日本史の誕生』)

1-(2)西征記事

①四道将軍の派遣(崇神大王)

②第1次九州遠征(景行大王)

③クマソ暗殺行(ヤマトタケル)

④第2次九州遠征・第一次新羅遠征(神功皇后、仲哀大王)

⑤磐井の反乱鎮圧(継体大王)

⑥第2次新羅遠征(推古大王)

⑦白村江の戦い(斉明大王、中大兄皇子)

1-(3)伊藤睦月です。書記は、近畿の大和(山門国)を統一した、「ヤマトのアマ氏」が、域外に膨張していく様を段階を踏んで、記している。話の筋が通っている。⑦を除いた外征記事は、唐突感があって、本当に行われたか、怪しんでいる。⑤の反乱については、古田武彦は、「反乱」ではなく、「九州王朝の制圧」ではないかとしている。古田説に基本賛同するが、これについては、後で補足説明する。

1-(4)上記「征西」について、補足すると、

①畿内を統一した、「ヤマトのアマ氏」は、まず、部下(四道将軍)を各地に派遣し、ヤマトの支配下に置こうとした。(説得と武力を使い分け、おおむね成功したようだ)

②最も手ごわい相手である「倭国」(当時の最先進国)の勢力範囲である、九州に対しては、景行大王自らが、赴き、倭国エリア(博多平野、筑紫平野、球磨平野)を除く、地域を服属させた(原則武力行使せず、大王軍の巡回・威圧行動で従わせた)

③面従腹背の態度を示した、クマソタケルに対しては息子のヤマトタケルを派遣して、暗殺した。これで、倭国の「外堀」は埋まった。

④神功皇后、仲哀大王が、ヤマト、出雲、吉備、越前から動員した兵員で、「倭国」を攻め、従わせた。

⑤諸国の兵員は、新羅遠征名目で集められたのだろう。これを知らなかった、仲哀大王は、武内宿禰と共謀した、神功皇后に殺された。形ばかり(たぶん八百長)の新羅遠征を終えた神功は、武内宿禰との子、応神を産んだ。

⑥神功皇后は、応神とともに、山門国に帰還しようとしたが、仲哀大王の本当の息子たちに阻まれた。激戦の末、息子たちを殺して、山門国に帰還し、応神大王を即位させた。(「王の帰還」ロードオブザリングのパターン)

1-(5)伊藤睦月です。これから、「仁徳大王」の直系争いの記事、「河内王朝」「播磨王朝」の話になる。書記の舞台が、奈良盆地から大阪平野に移るが唐突感、不自然さは免れない。そこで、応神大王とは別の血統とみる見解もある(岡田英弘説)が、これについては、後で私見を述べる。

小休止、以上、伊藤睦月筆