属国日本史雑記帳(1)日本古代史研究がいまいちなのは、「方法論」議論が弱いからだ。安本美典の方法論にもっと注目すべきだ。
伊藤睦月です。
今回は、表題が、すべて語っているので・・・それでは芸がないので、少しぼやきます。
(1)ナチュラルサイエンスの分野では、「当たり前」なことかもしれないが、その研究を評価するにあたっては、「方法論」の吟味も重要らしい。日本の人文学(特に日本古代史)の分野で「方法論」そのものが、議論になることが少ない。日本史研究における、「方法論」の代表が「数理統計学」「歴史人口学」「遺伝子進化学」など。それらを駆使した文献上、考古上の研究成果も、ともすれば「目新しさ」のみに注目されているように思える。
(2)これが海外の研究者ともなれば、エマニュエル・トッド、ユバル・ノア・ハラリ、トマ・ピケティといった欧米第1線の学者たちは、ともすれば、そのユニークな見解に注目が集まりやすいが、彼らの「方法論」にももっと注目されてよい。トッドは、歴史人口学者の速水優を「自分の先生」とまで呼んでいる。速水の日本での弟子を公言しているのが「磯田道史」(国際日本文化センター教授)だが、最近はテレビ出演で忙しいのか、目立った業績がみられないようである。そのうち出てくることを期待しよう。
(3)例えば、今、ぼやきで、「宇治十帖」の作者は、紫式部ではない、(娘の大弐三位)だろう論が展開されているが、「 源氏物語」(本編44帖)と宇治十帖の文構造や語彙を、数理統計学の手法を用いて、比較分析し、「両者は別の人物により書かれたもの」という学説を、日本で初めて主張したのが、1960年代の大学院生だった、安本美典だ。
(4)もっとも、数理統計学は確率論なので、「大弐三位」だと特定するには至らなかったみたいだ(特定するにはデータ不足だったのだろう)が、安本説の出現は、源氏物語研究の画期(おおきなできごと)になったはず・・・実際はどうだったのだろう。欧米の学会だったら、安本説を中心に議論が進んでいただろう。
(5)津田左右吉(1873-1961)いえば、戦前の弾圧を堪えぬき、戦後、日本古代史の主流となっていたが、その方法論たる、文献批判学は、江戸後期の大阪の町人学者、山片蟠桃(やまがた ばんとう 1873-1821)の方法と成果を完コピしたもの、津田の『古事記及び日本書紀の新研究』は山片『夢の代』をそのまま無断で借用したもの、ということを関西の短大の教授が暴露している。(安本美典『新版卑弥呼の謎』講談社現代新書1988年 序 邪馬台国問題はなぜ解けない)
(5)伊藤睦月です。当時最先端の学説だった津田学説も実は、江戸時代の学説から一歩も進んでいない、ということだ。それは「方法論」が江戸時代と基本的に変わっていないからだ。これは、日本史関連だけにとどまらないだろう。
(6)ちなみに、山片や富永仲基(1715-1746)と同時代の欧米でも、山片や富永と同じような方法論が流行していて、「古代史や神話はすべて造作(後世のつくりもの:津田学説の基本テーゼである実証主義的な原典批判)」とされていた。それを打ち破ったのが、「シュリーマンのトロイ発掘」、「ソクラテスの弁明偽書説の否定」、などの新しい方法論にもとづく歴史調査研究だったそうだ(『同書』)
(7)同じ、日本人の歴史研究者でも、西洋史の研究家たちは、安本の取り組みに好意的だったそうで、林健太郎、村上堅太郎、田中美知太郎、といった当時の有名どころは、(林、村上は、私や副島先生が高校生時代にが使用した『山川詳説世界史』教科書の執筆者でもあった)安本説に好意的なコメントを寄せている。
(8)その一方で、日本史学者の井上光貞は、津田学説を評して、「主観的合理主義に貫かれている」と評していた。(井上センセイ、何をおっしゃりたかったのでしょう?)
(9)伊藤睦月です。私は山片や富永の学問水準が、当時の欧米の学問と同時並行的であった、素晴らしい、と持ちあげるために、本稿を書いているのではない。確かに彼らは「天才」だが、それとて19世紀の水準である。現在は21世紀である。現代の「方法論」でやりたいものだ。
(10)そういった観点からは、副島先生が「理系型知識人」の存在に注目し、彼らとのコンタクトを図っていたのは、僭越ながら、慧眼、というほかはない。その成果が、下條竜夫「物理学者が解き明かす」シリーズ(現在まで3冊でている)であろう。
(11)三冊目は魏志倭人伝と卑弥呼、といった日本古代史分野だ。下條氏は、安本美典にも言及されているが、彼の「方法論」にも注目してほしい。「邪馬台国東遷説」など、安本理論の成果の一つに過ぎない。
(12)安本の視野はもっと広いはずだ。そして、コテコテの文系人間の私では、学力不足で、そんな高みにはおそらくは、たどりつけないだろう。それでも、可能な限り、安本説にも目配りをきかせて、今後論じていくことにしたい、と思う。(また自分で自分のハードルを上げて、自分を追い込んでいる、われながら、懲りないやつだと思う。でも、これが私の「学問ごっこ」なので、仕方ない。)
(13)遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ、
(14)もうしばらく、私の「学問ごっこ」に付き合ってもらいますよ(誰に向かって言ってんだか。めんどくさいやつだ。多重人格でもあるまいに。)
以上、伊藤睦月筆。