守谷論文を検証する(4)チョウネンの大手柄(功績)

伊藤 投稿日:2024/06/13 16:39

伊藤睦月(2145)です。今回は守谷論文のチェックではなくて、自説を述べさせていただきます。

守谷論文にも登場したチョウネン坊主は、6位の身でありながら、中国皇帝との謁見を果たすという「尋常でないこと」をやってのけてたのですが、(宋史外国七日本国)それよりも、もっとすごいことをやってのけたのです。以下、列挙します。

〇チョウネンの功績(後世の日本に対する貢献)

1 当時の覇権国家、北宋太宗皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。

2 新唐書以降中国正史に日本正史の記述を採用させたこと。(天皇の正統性を公認してもらった)

3 宋書から、日本を蛮族扱いから国扱いに昇格させたこと。(中国世界の文明国として認めてもらった)

以下、補足説明します。

1 当時の派遣国家、中国皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。

1)「宋史外国七日本国」の記述(「倭人伝」(講談社学術文庫))によると、チョウネンは、皇帝拝謁前に中国役人から尋問を受け、手荷物検査みたいなことをされています。そして、あることがきっかけで皇帝との拝謁に成功している。このチョウネンの話は、不法入国外国人の取り調べのようなものと考えればわかりやすい。半分罪人扱いです。この取り調べを行った中国役人は、明州(寧波)、杭州といった、今の中国浙江省の港町に駐在していた「市泊司」のスタッフでしょう。高校テキストでは、貿易管理、税関機能が強調されてますが、当然人の管理、出入国管理機能も果たしていました。当時の中国への出入国は皇帝の許可状か、派遣側の国書(上表文、表)が必要でした。また中国国内の旅行、移動も皇帝の許可状が必要でした。

それ以外の入国、市泊司が駐在している港町以外の場所から上陸することはすべて不法入国です。その場で殺されても文句は言えない。出入国管理の決裁権は、皇帝にありましたから、市泊司で取調の後は、身柄の取り扱いについて必ず、皇帝まで報告、指示をあおいだはずです。そのときに没収(いや献上)された、銅器十余事、職員令、年代記は皇帝のスタッフのもとに送られたと思います、この時点ではまだ皇帝はチョウネンのことを知らない。(しつこいようですがもし、銅器のなかに黄金が詰められていれば、金の分量含めて、この時点で必ず皇帝まで報告されていたはずです。そうでないと、役人が処罰されます。役人がピンハネして全部わがものにした可能性は否定できませんが、守谷説だと量ははっきりしませんが、多少ピンハネしてもしきれない量だと思いますので、やっぱり黄金献上の記事がないのはおかしい)

(補足)チョウネンは、「その徒(従者や弟子)5,6人と海に浮かびて至る」とあり、乗ってきた皇帝公認の宋商人の名前が記されていないので、おそらくは密航でしょう。また宋船しか中国への渡航が許されず、日本船の入港は許されなかったので、もしかしたら、日本商人の密輸船だったかも。そうなるとかなりのリスクを負って渡航してきたと思われます、船はジャンク船、大きさは推測ですが、外洋航海可能な船となると最低500トン以上はあったでしょう。(補足終わり)

(補足②)チョウネンが献上した職員令と日本王の年代記は、超重要です。職員令は我が国の行政組織を記したもの。これは、日本が中国並みの、つまりグローバルスタンダードの社会制度を整備した、ちゃんとした国ですよ。ということを証明するものです。明治時代に、日本が西洋並みの国であることを示すため、憲法、民法、刑法といった社会制度を急いで整備して。欧州列強にアピールしたのと同じです。大事な書物です。また年代記は、日本書紀やその後の日本正史、それから今に至るまでの、歴代天皇の名簿です。守谷さんが主張されている、天皇の支配の正統性を宗主国である、中国(北宋)に認めてもらう必須アイテムであり、これらに比べれば、銅器や黄金(仮)など、どうでもよいのです。(補足終わり)

2)チョウネンに会いたがったのは北宋太宗皇帝の方である。だから「尋常でないこと」が起きた。

宋史には、「太宗、チョウネンを召見(呼び寄せて面会)し、これを存撫(ねぎらう)することはなはだしく・・・」とあります。チョウネンは6位の僧侶ですから、チョウネンがいくら希望しても皇帝には会えない。でも皇帝側が呼べば、話は違います。市泊司からの報告を受けた皇帝は、なんらかの理由で日本に関心をもち、チョウネンからもっとその話を聞きたいと考えたのです。それは銅器や幻の黄金、ではない。それなら話を聞く必要はない。

皇帝は、チョウネンが献上した、「王の年代記」と「職員令」のある部分に関心を持ったのです。チョウネンは空海のような能書家ではありませんから、上表文で皇帝を感動させたわけではない。尋問調書だけ。(チョウネンは中国語がしゃべれなかったので。すべて筆談です。皇帝との会見もすべて筆談。最も中国の公用語は書き言葉の漢文ですから、皇帝と会話することはそもそ許されていません)

皇帝は、日本の何に関心を持ったか。宋史にはこう記録されてます。

(引用はじめ)上はその国王、一姓伝継にして、臣下皆官なりと聞き(筆談だから読み:伊藤、因りて嘆息してして、宰相に言いて(たぶんしゃべった、と思います)曰く、「・・・日本の年代記のように一姓の天子が続いていることは、(伊藤要約)・・・これ朕の心なり」(引用終わり)

伊藤睦月(2145)です。「万世一系」という言葉は明治時代の造語であり、平安時代の歴史を語るに使用すべきでない、と考えてますので、「万世一系(仮)」としますが、中国皇帝は日本の「万世一系(仮)」の天皇と(一姓の)家臣たちで治めている、日本の国のありようを、私の理想だ、(朕の心)と言ったのです。これは中国スタンダード、易姓革命論からすれば、驚天動地の発言です。北宋史官(歴史記録官)に強い印象を与え、中国正史(宋史)に記録されたのです。その願いは、1060年に成立した、新唐書でかなえられました。新唐書の編集代表者の欧陽脩は、この太宗皇帝とチョウネンの歴史的な会見を尊重して、新唐書の大半を、日本書紀をはじめとする日本正史に記録された歴代天皇の名前で埋める、という作業をしたのです。このことは日本の歴代天皇が中国皇帝から正当性を承認された、ということを意味します。でも、後世からみれば、史料的価値に乏しく、面白みのない文章、ということになりましたが、そんなことは当時の人々からすれば、どうでもよいこと。それよりも、「万世一系(仮)」が生命線である天皇家の正統性が中国に担保されたことが超重要ではないですか。守谷さん。あなたの主張されている目的は、旧唐書でなく、新唐書で果たされたのですよ。なのになんで旧唐書なんていう、10年余りで滅亡した地方政権が編纂した歴史書にこだわるのか、私には理解できません。

(補足③)チョウネンが北宋太宗皇帝に拝謁したとき、会見まえにチョウネンに紫衣と当時の五つ星ホテルに泊まらせ、3位の日本僧チョウネンとして会見(筆談)しています。つまり、皇帝に拝謁できる日本の使者は、3位であるという、粟田真人から菅原道真までの慣例は守られています。あーめんどくさい。(補足終わり)

3)そして、このチョウネンの大成功(ケガの功名)は、意外な副次効果を持ちます。チョウネンの帰国後も、日本の僧たちによる中国訪問が続きます。そして日本の情報もだんだん中国に知られるようになりました。当時は藤原氏ら高級貴族たちは、守谷説のような危機感もなく、もちろん、旧唐書を読んで衝撃を受けることもなく、というか、読んだはずもなく、(太平御覧を読んで知ったという可能性はあります。藤原行成とか藤原公任、藤原実資あたりなら、読んでるかも、それならそんなに衝撃的な内容なら、彼らの誰かが日記に書いていそうなものだ。守谷さん、探してみませんか。)安和の変(969年)で最後の賜姓源氏のライバルを蹴落とした後は、藤原摂関家の中で骨肉の争いを始めたころです。藤原道長の祖父や父たちの時代です。そんなとき、5位の中級貴族を父に持つ6位の僧侶(当時正式の僧侶は国から官位をもらった。いわば国家公務員でした)が、なんの偶然か、中国皇帝に拝謁がかない、3位の官位(紫衣)までもらってきたのです。賞賛するよりむしろ当惑したでしょう。今のサラリーマン社会と同じです。

そして、最期の功績。チョウネンの足跡は次の元の時代に編纂された「宋史」(1345年成立)に詳しく記録され、次の明代に編纂された「元史」(1369年成立)にまで引き継がれた。そして、宋史にてはじめて、外国七日本に分類された。それまでは、例えば、隋書東夷倭国、旧唐書東夷倭、同じく日本、新唐書東夷日本、とすべて東夷(東の野蛮人)という冠がつく。日出所の天子、日没するところの天子に云々とか、虚勢をはっていても、中国からみれば東夷(野蛮人)扱い。遣唐使で何度朝貢してあたまさげても、野蛮人扱い。私はいままで「倭国伝」とか「日本伝」とか「伝」を使用するのに慎重になっていたが、伝は列伝の伝。それをチョウネンの訪中、皇帝との会見がきっかけとなって、外国扱いにまで昇格したのだから、これもチョウネンの、ケガの功名であろう。だから倭王、日本王というのは、少なくとも唐史以前では、倭族長、倭酋長、と言った方が、中国側から見えた日本の姿であろう。

(補足:さらに脱線)後世、足利義満が明王朝から、日本国王に柵封を受けたが、これもチョウネンらの努力により、日本が、蛮族扱いから外国扱いになっていたからかも、という想像を楽しんでいます)(補足終わり)

(更に補足)元史外夷1日本(また外夷に戻っているが、次の明史では外国扱いになっている。その理由は現時点では不明)のチョウネンの記事では、

「職貢を奉り、並びに銅器十余事を献ず」となっている。職貢とは、貢物という意味なので、黄金であれば、守谷説の支援になるのに。また、皇帝との会見は省略されている。外夷に格下げしたことと話のつじつまが合わなくなるからであろう。

今回はここまで、次回から、また守谷論文の検証に戻ります。実は、これからが本番、です。

(以上、伊藤睦月(2145)筆)