伊藤睦月氏に答えるに答える(とりあえずのラスト):フビライカーンは「東方見聞録」を読んでいない。守谷君の雑な思考が彼の論文を台無しにした。

伊藤 投稿日:2024/06/21 11:47

伊藤睦月(2145)です。守谷君の私に対する。投稿文の検証で、残っているものに、コメントします。

(引用はじめ)奝然は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでも解ることだ。尋常でないことがあったのだ。尋常でない黄金を運んで行ったのだ。

これがマルコポーロの『東方見聞録』のジパング黄金伝説の元ネタになり、フビライハーンの日本に対する異常な執着(元寇)の原因となったのである。

(引用終わり)伊藤睦月です。この投稿文の前半部分はさんざんコメントしましたので、繰り返しません。

で、後半部分(マルコポーロ)については、簡単でした。「東方見聞録2・東洋文庫版」(平凡社ライブラリー)の該当部分を一読すれば、秒殺、です。

(引用開始)

ところで、無尽蔵なこの島国の富を伝え聞いたクビライ現カーンは、武力をもってこれを征服せんものと決意し、二人の重臣に歩騎の大軍と大艦隊を授けてこの島国に向かわしめたのである。(同書184,185頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。この後、この島国で暴風雨にあって、全滅した、という記事が続きます。この戦いの描写から、「弘安の役」(1281)のことだとされています。つまり、クビライカーンは「東方見聞録」を読んでません。このことから、守谷健二君は、「東方見聞録」の本文を確認せずに、上記のでたらめを書いていたことになります。これで守谷論文のすべてが、不可、になりました。典型的なオウンゴールです。もったいない。守谷健二君は、多少とも学問的な論文を書く上での初歩の初歩をわきまえていない、「イタイヒト」でした。(しかも高校日本史の教科書レベルの知識もないくせに、むやみに歴史文献を振り回して得意になっている、アブナイヒト、でもありあます)この点私は妥協しません。顔洗って出なおしてこい。

とここで終わるのも、なんですから、いくつか補足します。

(1)まずこの出典をチェックする、という作業は、あの羽生教授が、あの「マックスウェーバーの犯罪」を暴いた手法です。シンプルだけど破壊力抜群、です。(もしよかったら、通称「ユダヤ本」(祥伝社新書)を参照してください)「東方見聞録」は、古フランス語で書かれていますから、日本語版でチェックしても許容範囲でしょう。

(2)マルコポーロは、ベネチアに戻った、1295年以降に、元を拠点に商業活動をしたときの各国、各地域事情を書いたといわれています。(債務が返済できずに牢獄に入れられた間に書いたとも。これも興味深いですが、今回は割愛)その内容の奇抜さから、最初は信用されませんでしたが、ユーラシア事情が判明するにつれ、その正確さが再評価されました。チパング(日本)の記述もその文脈で考えるべきです。完成は、1299年頃、だと思います。当時は印刷、でなく写本、でしたから、ベネチア共和国の情報機関(塩野七生によると、当時ベネチアは欧州最強のインテリジェンス機関でもあったようです。)や商人仲間で秘蔵されていて、フビライカーン(元王朝)のもとには届いていない。そもそも、フビライカーンは、1294年に死亡していますから、完成していない「東方見聞録」を読めるはずもありません。守谷健二君の妄想でしょう。(やさしく「勘違い」とでも言って差し上げましょうか?)

(3)では、フビライカーンは、日本に関するどんな情報をもっていたのか、マルコポーロは、「東方見聞録」で、日本の「黄金伝説」をこう書き残しています。

(引用はじめ)①この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大なな黄金を所有している。この国へは、大陸から誰も行った者がない。商人でさえ訪れないから、豊富な黄金はかつて一度も国外に持ち出されなかった。右のような莫大な黄金がその国に現存するのは全くかかってこの理由による。

②引き続いて、この島国の国王が持ってる一宮殿の偉観について述べてみよう。この国王の一大宮殿は、それこそ純金づくめでできているのですぞ。・・・(中略)げにこの(黄金)宮殿はかくも計り知れない豪奢ぶりであるから、たとえ、誰かがその正しい評価をしようとも、とても信用されえないに違いない。(同署183,184頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。これらの記述から、①「いたるところにある」砂金の産出がメインだったことがわかります。

毎度おなじみ、奝然坊主も、入国時の事情聴取で、「陸奥の金、対馬の銀」と(筆談で)言っていますので、陸奥の金は当時から有名だったのでしょうが、金鉱山でありませんから、見た目よりは産出量は少なかった、と思われます。銀に至っては、対馬の銀は「水銀」のことだと思われます。東方見聞録では、黄金と並ぶお宝として、「真珠」をあげていますが、日本のお宝として、こちらの方がリアリティがある、と思いますが、どれくらい価値があったのか。意外となかったのでは。黄金宮殿は中尊寺金色堂のことだと、いう研究者もいますが、実際中尊寺を見ると、意外としょぼいことが分かります。しかも金箔貼ってあるだけです。伝聞ですが、数キログラムの金箔で、東京ドームのグランド部分(約1ヘクタール)をカバーできるそうで、黄金の場合は見た目と、実際の分量とのギャップに注意すべきです。

②「東方見聞録」は、チパング(日本)に黄金があふれていたのは、後年の江戸時代のように鎖国体制をとっていて、黄金の海外持ち出しができなかったからだ、産出量が多かったからではない、という解釈をしています。これは、奝然坊主の話とは矛盾しますし、守谷健二君の論考とも矛盾しますが、私、伊藤はビジネスマン・マルコポーロの方が正確だったのではないか、と思います。とにかく日本の金が有名になるのは、金鉱山が開発された、16、17世紀以降であって、それまでは、東北の砂金は有名だったけど、中国皇帝が驚くほどではなかった(だから、黄金献上の話は、中国側の史料に出てこない。現時点の見解)と考えます。

伊藤睦月です。それよりも、東方見聞録で、私が注目している記述を紹介します。

(引用はじめ)しかし、この一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しするが、チパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに「どうかおいでください。我が家でいっしょに会食しましょう」と招待状を発し、かの捕虜を殺して、むろん料理してであるが、皆でその肉を会食する。彼らは人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。(前掲書196頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。これは、当時の貿易商人たちにとっても、黄金伝説より重要な安全情報です。「黄金の国ジパング」は、「食人族の国チパング」だったわけです。うっかり商売にいけば、食われる。鎖国よりもよほど怖い。私、伊藤は、漫画「北斗の拳」の修羅の国を連想しました。以前、別の論考で、7世紀の日本人に食人の習慣があったのではないか、と推測しましたが、それは、この個所を読んだからです。私は、「東方見聞録」の方が正確だったと思います。

(3)伊藤睦月です。ここから先は、伊藤のファンタジーです。

①食人の習慣が亡くなったのは、仏教教育によるものでしょうが、個人救済の思想の先駆け、浄土教が登場した平安中期以降(11世紀)だと考えます。教育の始まりは、8世紀の持統天皇のころからだと考えますが、当時は「鎮護国家」の仏教で、個人救済の思想はなかったか、あっても乏しかったとみています。戒律を授かった、正式の僧侶(国家公務員)は、肉食妻帯を禁じられていたと思いますが、「人を食ってはいけない」という戒律は明文化されていなかったのでは、とみています。(未確認)だから中国で食人の習慣が残ったのではないかと。

②日本で、食肉、食人の風習が亡くなったのは、恐らく12世紀、日本に禅宗が伝わり、いわゆる精進料理が普及してからではないか。それでも当時の支配階級(公家、僧侶)の間だけで、被支配階級の間では、長く食肉・食人の習慣は残っていて(餓死よりはまし)、完全に消えたのは、17世紀、江戸時代、徳川綱吉の「生類哀れみの令」以降だと、私、伊藤は考えます。(今のところ、100%伊藤のファンタジーですが。内心自信あります)

伊藤睦月です。「東方見聞録」については、まだまだ、書きたいことがあるので、また投稿します。

また、守谷論文の最大の致命的欠陥について、稿を改めます。守谷健二君、君の論考に対する批判はまだ始まっていません。今までは、単なる「指摘」に過ぎません。これからが本番、です。

(以上、伊藤睦月筆)