伊藤氏の見解についての疑問点(1つ目)

会員番号2054 投稿日:2024/06/23 13:43

会員2054です。まず、回答をしていただいた伊藤氏に御礼を申し上げます。私の立場を明確にしていなかったため、誤解を招いてしまったように思います。私は、岡田説のように倭国と日本が別の国という立場を採りません。当時の倭は、日本列島の総称のことで、倭国と日本は同一の意味と解します。
伊藤氏の見解(倭国と日本は別)からすると、その点を明らかにしないと用語の区別もできない雑な説明と判断されるのも理解できます。この点、お詫び申し上げます。
なお、以降は、私の立場(倭国=日本)を前提に記述させていただきます。引用元の小林恵子説も同様の立場と理解しています。伊藤氏の見解への疑問を続けます。

<1点目>665年当時の東アジア情勢について
(引用はじめ)
【476】【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)
ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、 唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。
(引用終わり)

会員2054です。伊藤氏は663年以降、唐が新羅をはさみうちにするために日本にすりよってきたとあります。日本と唐が講和した(665年)のは事実と思われますが、「新羅をはさみうち」にする意図が当時の唐にあることを示す根拠は存在しません。
むしろ、歴史の流れは別方向に向いています。665年8月に劉仁軌は、百済の王子(扶余隆)と新羅(文武王)の間で和平を結ばせています。また、同年に倭国に使者(劉徳高)を送り、唐国と倭国の講和も成立しています。当時は唐による高句麗征討の前夜でもあります。これらを前提にすると、新羅をはさみうちするような状況ではなく、むしろ対高句麗戦をまえに、旧百済、新羅、倭国との結束を固める唐国の企図がうかがえます。
また、中大兄(天智天皇)の捜索・捕縛という伊藤氏の見解も根拠がありません。劉徳高の来倭当時、大友皇子(天智天皇の子)の相を見て大いに褒めたと『懐風藻』にあるようです。これは伊藤氏の見解と真逆の事実を表しており、のちの天智朝の承認を表している証拠となります。

(反論2点目に続きます)