伊藤さんの疑問に答えて
伊藤睦月様
拙本をお読みいただき、かつ丁寧な講評をいただき、どうもありがとうございます。ご質問に対して、わかるかぎり簡潔にお答えします。
質問1 卑弥呼のような高貴な女性がなぜ、倭国に渡来してきたのかその渡来目的は何か。
これについては、確かな証拠がないので本には何も記しませんでした。しかし、個人的には、金や鉄を堀っていた四川省付近の金堀集団が、日本に来たのち(日本は火山国なので金銅鉄がマグマで噴き出すため多くとれます)、「我々も五斗米道の教祖に日々教えを請いたい」と呼びよせたと思います。だから、もちろん布教もしただろうと思います。ただ、その証拠は何も残っていないので、「その道教の教えが現在の神道のもとなのだろう」という間接的な証拠しかありません。
ちなみに副島説では道教=五斗米道にキリスト教が入っていることになっています。卑弥呼の弥呼(みこ)は巫女だとしましたが、本当は神子(=イエスキリストのこと)なのではないかと思います。
質問2岡田英弘博士は、古事記を平安時代初期につくられた偽書だと断じて、日本古代史を語る史料として採用していない(『日本史の誕生』)はずですが、下條さんは、古事記も採用しているように思えます。その理由は。
私も偽書説を支持していますが、偽書にしても、古事記は、日本書紀かそのもとになる蘇我時代の歴史書を参考にして書かれたのではないかと考えています。そういう意味で、古事記も参考にしました。
質問3 下條さんは、最近「重たい掲示板」でスピリチュアルについて、興味深い文章を投稿されていますが、その中でスピリチュアルを「信じる人」「信じない人」という言い方をされていますが、信じる信じないにかかわらず、スピリチュアル(霊魂=マインド)は「ある」ものではないか、どう思われますか。
このあたりは副島先生から厳しい批判を受けました、「お前はキリスト教の神のような普遍のものを信じているのではないか」と。
スピリチュアリズムには1.自分の外に霊(spirit)(神や祖先の霊)が存在して、2.それを信じることで幸福になれる、という信念があるように思います。しかし、私には霊はみえない、感じられない、だから1.の自分の外に霊が存在するか私にはわかりません。そういう意味ではスピリチュアルを信じられない人です。つまり、私がこの文章を書いた背景に、霊(spirit)とは本当は何なのか、という疑問がありました。
しかし、最近、伊藤さんが指摘するように霊=霊魂なのだろうと考え直しています。自分の霊魂=思考が霊(spirit)を感じさせているのだろうと思っています。この点についてはウイリアムジェイムスの『宗教的経験の諸相』の「人間の潜在意識(subconsiusness = フロイトのいう無意識nonconsiusness)がそう感じさせている」という考えが参考になります。
また何かありましたら、ご質問ください。
下條竜夫拝