ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(5)新唐書の価値
伊藤睦月です。
本稿では、『倭国伝 中国正史に描かれた日本』(講談社学術文庫2010年)を使用します。
(1)私が考える新唐書の価値は、新唐書で、「天皇」号の使用が初めて認められた、ということです。つまり、「日本」号の使用=日本建国は、661年(岡田・副島)もしくは、702年(学会多数)。「天皇」号使用は、国内では、671年(近江令)、中国公認は、1061年(新唐書日本伝への記載)、ということになります。この指摘はおそらく私が日本初です。(汗)
(2)そのきっかけは、984年、東大寺学僧の奝然(ちょうねん)が、北宋太宗皇帝に謁見した時に、「日本王の年代記」の献上に成功したことです。この年代記は、日本書紀の「帝紀」(王の系譜を記したもの)にあたるものと思われます。(日本書紀自体は献上されなかったろう論は別に述べます)奝然の存在は、守谷健二氏の指摘で知りました。「宋史日本国」の冒頭近くに、明記されています。
(3)いままで、高校教科書では、「日本」と「天皇」がいつ使われたかについて、「日本」は明確に示しているのに、「天皇」については、記載がないか、あいまいでした。それで、「日本」号が認められたのと同時だと、私は思っていました。
(4)東洋史学会では、1980年代から、歴代遣唐使は、「天皇」ではなくて、「日本国王主明楽美御徳」(スメラミコト)と自分で名乗り、唐側からもそう命名されていたこと、「日本国王」は「日本国皇」と中国からの国書を書き換えていた事実を指摘していましたが、日本史学会の採用にはならなかったようです。(2010年代になってようやくその事実を認めたようだ。そのうち、教科書の記述もそうなるだろう)
(5)なぜそうだったかの説明は今までの投稿をみていただきたいが、簡単に言うと、702年、第7回遣唐使、粟田真人が謁見した中国皇帝は、「天皇」号を自ら名乗った則天武后だったので、天皇とは名乗れず、天皇以前の倭王の尊称であった「スメラミコト」を名乗らざるを得なかった。それが、唐の滅亡まで続いた、ということ。
(6)では、その部分を引用する。
その王の姓は、阿毎(あめ)氏、自ら言う。初主は天御中主(あめのみかぬし)と号し、・・・神武立ち、更(あらた)めて、天皇を以って号となし、治(ち)を大和州(やまとしゅう)に徒(うつ)す。・・・以下略。
(7)伊藤睦月です。この「天皇」という2文字を入れてもらうのに、400年かかったということ。当時の日本は、藤原道長の全盛期に当たる。
(8)ちなみに、旧唐書日本伝の価値は、
今まで朝貢していた「倭国」とは別種の国である国(山門国:副島説)が「日本」という国号で、唐帝国に認められた。ことです。ほかの記事はどうでもよろし。
なお、日本(山門国)が倭国の地を併合したと主張したが、怪しまれ、新唐書では、逆に倭国に併合されたのではないか、と言われて反論できなかった記事もあるが、とにかく、日本という国の存在を認められたことが、とてつもなく大きいのです。粟田真人はその功で、3位から1位に、後の、僧奝然が6位から、3位(東大寺別当)に大出世したのは、当然かと思います。
小休止、以上伊藤睦月筆