ブレイク:史書の実証性について
2054です。伊藤氏の「見取り図」のピース埋めについて意見や参考情報等、私ができることであれば協力いたします。いつの間にやら、私は伊藤氏の「応援団」になっていますかね(笑)。というか、伊藤氏に、いろいろ知らないことを教えていただこうと思っています。歴史学については充電された後に、かつ、気の向いたときに教えてください。どうぞよろしくお願いします。
今回は、史書の実証性について考察してみたいと思います。実は、伊藤氏を見習って、学会通説なるものを少しは理解しようと思いたちまして、大津透『天皇の歴史1神話から歴史へ』(講談社学術文庫)を読んでみました。ただ、スタンダードな概説書という位置づけなので、踏み込んだ記述がない点は差し引いても、特に政治外交史はまったくダメ。眠くなるような本でした。ちなみに東倭は「と」の字もありません(笑)。
こんなものなんですかねえ。これじゃ、100年先には消えていそう(すぐ消えてもいい)というのが正直な感想です。なんでかな?とつらつら考えていたのですが、その根本に「史書の実証性」があるような気がしてなりません。
まず、大津透は資料の取扱いについて、『天皇の歴史1神話から歴史へ』に以下のような説明があります。(引用はじめ:大津透『天皇の歴史1神話から歴史へ』:講談社学術文庫 電子書籍版:6/100%箇所)
歴史学はより信頼のおける史料に基づいて史実を再構成するのが原則である。一番信頼がおけるのは同じ時代に記録された文章(中略)次によるべきは、当時文字による記録を作成していた中国の資料である。歴代王朝ごとに次の王朝により国家事業として編纂された正史は、そうした文字の記録をもとにしているから、信憑性が高い。
(引用終わり)
2054です。大津氏は同時代に記録された文章や中国正史を信憑性の高いものとします。一般的に、一次史料と言われるものでしょうか。大津氏は二次史料について言及していませんが、上記の論理から推論すれば、二次史料は後の時代にまとめられたものだから、史料の信頼性は低いとされるはず。
そういえば、伊藤氏も「冊府元亀は二次史料だから取り上げる意味が分からない」というようなことを何度か述べられていましたから、これは大津氏に限らず歴史学会でのスタンダードな姿勢なのかもしれません(間違っていたらご指摘ください)。また、下條先生は、物理学のご専門で歴史学会の外にいらっしゃいますが、『邪馬台国の謎』を執筆時には三国史記にある卑弥呼の記述をご存じではなく、二次史料だからということで考慮の外に置かれていました。学会の内外を問わず、これは歴史学の常識なのかもしれません。
しかし、本当にそれでいいんでしょうか。
学会通説から距離を置いているといわれる岡田英弘教授でも日本書紀に関しては学会通説と似たような姿勢で、同時代の史料のほうが信憑性があるという立場です。岡田英弘『日本史の誕生』(ちくま文庫p78)では日本書紀について以下のように評価しています。
(引用はじめ)(※日本書紀は)古い伝承でも、現政権に都合の悪いものは切り捨て、都合のいい話は創作して歴史の筋書きを作り上げる。それでも、まだ生き証人がいるような新しい時代のことは、そうそう嘘はつけないから、天武天皇の父の舒明天皇が即位した629年からあとの史実は、かなり正直に書いているようである。
(引用おわり)
2054です。上記の通り、岡田教授の説明では、新しいものは信憑性があるが、古いものは創作としています。しかし、それはおかしいのではないでしょうか。都合の悪いものを切り捨てるのは、古いものも新しいものも同じこと。むしろ、新しい時代の方が、利害関係者が多すぎて本当のことは言えません。「ちょっとさしさわりがあって言えません、墓場まで持っていきます(でも一族郎党にだけは話しておきます)」は昔もあったでしょう。
そして、岡田教授が629年以降の舒明天皇以降は正確ということ自体が不思議です。壬申の乱について天武朝が本当のことを「書くわけがない」ですし、その端緒となる時期の629年以降なんて嘘八百がまかり通ります。
「徳川家康はすり替えられた説」が正しいとすれば、すり替えられた当人に会った同時代の人は皆「別人」としっていたわけで、生き証人ばかりです。しかしそのことが世に著されたのは1902年と副島先生の記述にあります。生き証人がいるから、なんて理由になりません。
他方、古い事実は正確に物を言いやすくもなります。干支を合わせて120年繰り下げれば、三国史記や中国正史と年代が一致する事実など、ざらにあります。万世一系を国是とするから王位簒奪を明記できないという制約はあるものの、真実を暗示しているだろう説話も多くあります。世に言われているほど日本書紀は荒唐無稽ではなく(荒唐無稽なもの、隠蔽、改ざんした史実もありますが)、単なる創作でもなく、当時の最高峰の知識人の学識から記述された、歴史的に貴重な史料と思えます。
ただ、注意すべきは、「同時代だから一級品」というものではなく、「古い史実は不正確、新しければ正確というものでもない」と私は思います。
小林恵子は奈良時代の研究方法と『続日本紀』について以下のような言及をしています。
(小林恵子『「安・史の乱」と藤原仲麻呂の滅亡』まえがき、現代思潮新社p11~12引用はじめ)
専門家は、『続日本紀』の記述の内容について云々すること自体、憶測や推理に過ぎないとしてしりぞけるか、でなければ無視するかしているから、『続日本紀』の記載と異なる意見が定説として成立したためしはない。『続日本紀』をそのまま読み下すことこそ正統な歴史学者だと信じているようだ。史料にないことを推量すると、推理小説のようだといい、相手にしないのが学問的だと思っている。奈良時代の人々の生活は、近年考古学上の発掘からも明らかになりつつあるにもかかわらず、日本人は政治・外交史においては『続日本紀』の記載をほとんど全面的に史実と信じこまされ、教科書にも記載されて現在にいたっている。
『日本書紀』は神代から始まるので、特に前半については、そのまま事実と信じる現代人はほとんどいないが、逆に『続日本紀』の記載に疑問を持つ人はほとんどいないといって過言ではない。 しかし『続日本紀』を解読するだけなら、現在、よい訓訳も現代語訳も出版されているので素人でもできる。むしろ、それから先が歴史学としての専門家の分野なのである。
正史は常に為政者側に立った啓蒙書的性格が強いから、いかなる時代、いかなる国においても、時の為政者に都合の悪い事実は伏せられている。これが正史の法則であり、正史たるゆえんである。しかもその伏せられている部分が最も重要な歴史的事実であることは多言を要しない。
ところが現在までの方法、つまり平安時代までの日本の史料だけを頼りに、『続日本紀』を解釈すれば推理にすら限界がある。
私の場合、第一に奈良時代の日本は、中国を中心にした東アジアの政治的な動きと密接に連動していたこと、あるいは互いに影響を与えていたということを、中国、韓国・朝鮮の史料から考察する。第二として、『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯(しんい)説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。その讖緯説的表現も史実の究明に重要な役割を果たすと考えている。
第一と第二が一致し、その上、『続日本紀』の記述と矛盾しないこと、むしろ『続日本紀』が暗示にとどめざるを得なかった事柄が第一と第二から、より明確になった場合のみ、私見として取り上げている。この方法で、私は七世紀以前をふくめた古代史を解釈してきた。
(引用ここまで)
2054です。一次史料よりも二次史料の方が遥かに真実を語っていることも十分ありえる話です。「一次史料だから、二次史料だから」と判で押したように思考するのは、弊害が大きい。特に、一次史料と矛盾する二次史料があるときに、常に一次史料を優先するというのでは、真実探求は遠のくばかりです。
小林恵子の上記の説明によれば「『続日本紀』の記載と異なる意見が定説として成立したためしはない」のだそうです。続日本紀が正しくなく、後世の史料(二次史料)から真実を発見・論証するというようなことは現在の歴史学会だと絶望的に難しいのでしょう。史料の実証性にこだわって自縄自縛に陥っている人たち、と私の目には映ってしまいます。