ブレイク:副島史観と岡田史観が袂を分けるとき
伊藤睦月です。日本古代史(「日本」建国まで)を語るにあたって、副島史観と岡田史観はニヤイクオールとして、語ってきた。副島先生は、「岡田英弘博士を尊敬している」とし、倭国が華僑のゆるやかな連合体であること、663年の白村江の敗戦後の外圧に対抗するため天智天皇のもと、団結して「日本」を想像したとの岡田説を支持している。
しかし、両者には、対中国観において、埋まりがたい溝があるように思える。古代史段階では顕在化していないが、時代が下るにつれて、明らかになるものと思われる。私説だが、その要素を3点あげる。
(1)岡田博士は、中国を「シナ」と呼ぶことにこだわっているが、副島先生は「チューゴク」と呼ぶのにこだわりがないように思える。
(2)岡田博士は、西嶋定生をはじめとする、日本東洋史学会の公認コンセプト「冊封体制」を認めない。その主著(『倭国』、『倭国の時代』、『日本史の誕生』)には、「朝貢」は出てきても「冊封」は出てこない。それに対し、副島先生は、斎川眞氏とともに、基本的なコンセプトとして許容しているように思える。
(3)岡田博士は、「日本文明」ということを当然のこととしている。これが両者最も相いれないところであろう。副島先生は、中国文明の枠組みの中で、日本は文化を育んできたのであって、「文明」といえるものではない、としている。ここはお互い譲れないところであろう。私は両説のジャッジをする立場でも能力もないが、副島説に賛同するものである。(理由は今回述べない)
伊藤睦月です。日本通史を語る中で、どの時代から、違いが鮮明になるのだろうか。私なりの予感や考えはあるが、それは、これから通史を語っていくなかで、明らかにしていこうと思う。
以上、伊藤睦月筆