ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(1)
伊藤睦月です。これまでの投稿をもとに、天皇家系図を仕分けして、畿内の大和国が取り入れた北九州の倭国王の系図を抽出する。底本は、
(1)天皇系図
(2)日本史年表・地図(児玉幸多編2024年吉川弘文館)
(3)歴史手帳2025(吉川弘文館)
伊藤睦月です。(2)は高校副読本だが、一般用としては最も詳細。(3)は、歴史愛好家によく利用されている。
1 古代(飛鳥時代)
(1)用明大王とその直系
①用明大王、聖徳太子(厩戸皇子)、山背王、久米皇子、当麻皇子、殖栗皇子
➁タリシヒコ=用明大王、聖徳太子の親子2代。「タリシヒコ」は「ヒミコ」と同じく、中華帝国が倭王につけ
た呼び名であろう。
➂当時、大和国では、神武以来のアマ氏と蘇我氏が倭王位をめぐる政争中であり、蘇我馬子は、アマ氏派の物部
守屋を滅し、穴穂部皇子、崇峻大王を殺して、倭王位についた。仏教導入争いは口実に過ぎない。穴穂部皇子
は、敏達のフィアンセ、推古の強姦未遂容疑で殺された。崇峻は露骨に反抗したので、部下の東漢氏(帰化人の
武闘派)を使って、暗殺した。
④645年の乙巳の変は、海外路線対立(親百済、親新羅派の対立、国粋派対国際派)の面もあるが、有力豪族(蘇
我氏)を天皇家(ヤマトのアマ氏)が排除しようとした。政局がらみのテロ事件だと考える。
⑤壬申の乱は、天智・天武の「共通の敵」を排除した後の「舒明直系」を決める戦いであった。天武は、有力豪族の
力を借りて、天智系(大友皇子)を排除した後、かねてから導入を図っていた、律令制を利用して、天皇権力の最
大化を図った。藤原不比等は、実務派官僚として、持統天皇の意向に従い、律令制導入を推進した。
⑥「日本書紀」を編纂するにあたって、蘇我氏の倭王時代を隠すため、663年の白村江の戦いで滅んだ、倭国のア
マ氏の事績を採用し、蘇我氏の事績を、用明大王以下の記事として書き換えた。そのため、日本書紀は中国(唐)に
提出されず、国内向けの啓蒙普及教材として利用されることになった。(同旨、古田武彦、参考として、守谷健二氏
の投稿(古事記の正体))
⑦聖徳太子は実在した。9~11世紀に成立した、「上宮聖徳法王帝説」という聖徳太子の伝記は、倭国王タシリヒ
コの伝記のこと。(法王は、国王が出家した場合にのみ、使用可能。同旨古田武彦。8世紀末に弓削道鏡が法王に任
じられたとき、この故事が想起され、危機感が高まった。傍証として、山背王の系統を「上宮王家」と呼称。)
⑧学会通説は、北九州の倭国の存在を認めない。そのため、倭国の政局を説明するのに、「聖徳太子非実在説」(大
山誠一)にたどり着かざるを得なかった。それだけでは、蘇我氏の倭王時代を説明できなくなって、蘇我馬子大王説
を主張するに至っている。これらは、倭国と大和国併存説を採用すれば、矛盾なく説明できる。
⑨副島隆彦先生は、古田武彦の「近畿天皇家、九州天皇家」というコンセプトを使用せず、「倭国と山門(大和)
国」のコンセプトを採用して、7世紀の日本政治・外交史の説明に成功している。私、伊藤も副島説を支持する。
以上、伊藤睦月筆
④
隋書倭国伝に記された倭王は、倭国王のこと。大和国は、度重なる攻撃に
より、優位を確保したが、外交権(貿易利権)は完全には奪えなかった。江戸時代の幕府ー琉球国との関係と
類似。