ブレイク:【513】へのご返信
2054です。さっそくに私の投稿をお読みいただきありがとうございます。伊藤氏の精力的な投稿に触発され、いろいろ考える契機をいただけました。御礼申し上げます。重訳については、近日中に投稿いたします。
司馬懿は徳川家康にそっくりというのは「言い得て妙」ですね。豊臣秀吉は臨終の際に「秀頼を頼む」と徳川家康に頼んでで死んだとされていますから、確かにそっくりです。
しかし徳川家康の忠義は表面だけです。豊臣秀吉もそういわざるを得なかっただけで、忠義者とは思っていなかった
ことは想像に難くありません。それと同じではないでしょうか。
「魏書」毌丘倹伝では、習鑿歯(しゅうきんし)が以下のように語っています。
(引用はじめ)http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/28a.html
習鑿歯曰く:毌丘倹は明帝の顧命に感動し、ゆえにこの戦役を為した。
君子(習鑿歯)が謂うには、毌丘倹の事は成らなかったとはいえ、忠臣と謂うべきである。
そも節を竭くして義に赴くのは自身に在り、成功と失敗とは時に在り、
自身に苟くも時が無ければ、成功がどうして必定となろうか? 自身を忘れて必定を求めず、
これが忠たる理由である。古人の言葉にも 「死者が復た生きても、生者は愧じず」 とある。
毌丘倹の如きは愧じぬ者と謂ってよかろう。
(引用おわり)
2054です。ここで分かることは、毌丘倹は明帝の忠臣で、明帝の顧命に従った(よって司馬氏に反逆した)ということです。ということは明帝の時から司馬氏が実権を掌握しつつあり、そして聡明な明帝はその状況を理解していたのではないでしょうか(理解していないはずがありません)。
【508】の(13)において、下條先生の「卑弥呼=張玉蘭説」について判断を保留すると述べられていました。その点についてですが、私は重たい掲示板において、[3453]『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』の疑問点というタイトルで投稿したことがございます。下條先生とはそのときに重たい掲示板上でやりとりをさせていただきました。もしよろしければ、ご高覧いただき、判断材料の1つにしていただければ幸いです。