カエサルのものはカエサルに

藤村 甲子園 投稿日:2011/12/06 04:03

<書誌事項> 2011年12月5日、読売新聞「解説」欄、「論点スペシャル・ヨーロッパの行方」
(インタビュー1)遠藤乾「統合の利、今も大きい」
(インタビュー2)橋爪大三郎「将来からの逆算、大切」

<遠藤乾・略歴> えんどう けん。1966年、東京都生まれ。北海道大教授。欧州委員会・専門調査員の経歴を持つ。専門は国際政治学・EU研究。編著に「ヨーロッパ統合史」「複数のヨーロッパ」など。(前記・読売による)

<私  見> 新聞で遠藤乾氏のEU論を読む。同氏の論により「補完性原理」なる言葉を初めて知った。

(引用、始め)

理念から見れば、EUには補完性原理という考えがある。
「より小さい単位が自らの目的を達成できる場合は、より大きな単位は介入してはならない」とする消極的原理と、「小さな単位が自らの目的を達成できない場合は、大きな単位が介入しなければならない」とする積極的原理からなる。
もともと軍隊の正規軍と予備軍の関係を指し、のちにキリスト教会の小教区と大教区の関係、市民社会と国家の関係に適用され、今は加盟国とEUの関係に応用されている。

(引用、終わり)

小生の理解では「補完性原理」とは、主権国家と欧州流個人主義が折り合って行くための屁理屈と思われる。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というわけである。

私の見るところ「補完性原理」には、カエサルそのものを相対的・歴史的とみる姿勢は感じられない。これはゲスの勘繰りだが、「補完性原理」と「大きな政府」論は相性が良いのではなかろうか。

「補完性原理」の由来をたどると、元々はローマ法王が言い出したことらしい。マルクスやハイエクのような極論に走らなかったところは、さすがアッパレな政治家ぶりではある。

こうやってカエサルに「補完」されるのにウンザリした人々が、新大陸に渡って一旗あげるとリバータリアンになるのだろうか。「補完性原理」と「リバータリアン」を並べて検索してみたが、めぼしいものはヒットしなかった。先学のご教示を賜りたい。

ふと小生は、旧ソ連のスパイで御用作家、イリヤ・エレンブルグの一節を思い出した。あるアメリカ人実業家の問わず語りを書き留めたものである。

(引用、始め)

ふじむら掲示板[1398]人生意気に感じる話 投稿者:藤村甲子園  投稿日:2002/03/30(Sat) 16:45:20

(前  略)

<書誌事項>イリヤ・エレンブルグ「わが回想(副題)人間・歳月・生活」木村浩訳、全三巻、1853p、朝日新聞社、1968~69年(改訂新装版)

(中  略)

<「人生意気に感じる話」の前口上>
エレンブルグは1946年4月から数ヶ月、アメリカ、カナダを公費旅行している。(中  略)旅も終わりに近づき、乗り継ぎのため立ち寄ったニューヨーク州オールバニで、エレンブルグはとても印象的な体験をすることになる。以下に、エレンブルグ「わが回想」から該当部分を引用する。

<人生意気に感じる話>
私がオールバニでのこの晩を記憶に留めたのは、そこでバーの客の一人と突然、話し込んでしまったからであった。見たところ、その男は五十歳以下であった。彼の赤銅色の顔は汗で光っていた――その晩は暑かったのだ。彼は二年間ブリュッセルで暮らしたので、フランス語をよく話した。(中  略)

私は、彼がそのような不安な生活に疲れていないかどうか、たずねてみた。彼は軽蔑するような微笑を浮かべた――「私は、ベルギー人でもなく、フランス人でもなく、ロシア人でもありません。私はほんとうのアメリカ人ですよ。五月に私は五十四歳になりましたが、これは男ざかりの年齢です。私の頭はいろいろなアイデアでぎっしりです。私はまだ上にのぼっていけますよ」それから彼は理窟を並べはじめた――「私は何もロシア人に反感なぞもってはいませんよ。ロシア人はしっかり戦いましたからね。きっと彼らはりっぱなビジネスマンにちがいありません。しかし私は『タイムス』で、お国には個人の創意というものがない、自由競争がない、出世できるのは政治家と建設者だけで、他の者は労働し給料をもらうだけだ、という記事を読みました。これは世にも退屈な話です!もしも大不況(二十年代末の経済恐慌を彼はそうよんでいた)の際、おまえに相当の給料を出すが、それはおまえが州から州へ移らず、職を変えないという条件づきでだ、といわれたとしたら、私は自分で自分の命を絶ったことでしょう。あなたには、この気持ちがおわかりにならないでしょうね?もちろんですよ!私はブリュッセルで、人びとが平穏無事に暮らし、万一に備えて貯蓄し、退化していくさまを見ました。あそこでは、どの青年も精神的インポテントですよ・・・・・」(中  略)

私はある夜、旅行についての私の思いをメモし、そのメモの中でオールバニで出会った赤銅色のアメリカ人のことに戻った。(中  略)アメリカでは資本主義が、青春ではないにせよ、オールバニであの男がいったごとく『男ざかりの年齢』を送っているのだ。彼は偶然の冒険家ではなく、冒険主義的世界の生んだ人間なのである。彼が重んじているいっさいのものは、彼にとっては終わりかけているのでなく、はじまりかけているのだ。アメリカとは協定しなければならない――革命は、あそこでは近々数十年のうちにはおこらないだろうから。アメリカ人を抑制しなければならない。彼らは概して温和な人間だが、たいそう冒険的な連中だから・・・・」(「わが回想」第三巻、346p~349p)

(後  略)

(引用、終わり)

ところでこの「補完性原理」、元々個人主義の土壌がない日本国では、なんと民営化推進論者の旗印になっているらしい。これには恐れ入った。やれやれとんだサルどもである、もちろん小生も含めてだが。
(以 上)