【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します(最後の投稿とします)

会員番号2054 投稿日:2024/12/26 07:48

2054です。【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します。

今回が私の最後の投稿となります。
本掲示板において私は何度か投稿をしてまいりました。普段は本を読むだけですが、書き表すことで、私自身の思考を深めて整理することができ「すっきり」しました。
そのきっかけは伊藤氏の投稿によるものでした。その点で伊藤氏に感謝の念を持っております。

しかし、その伊藤氏への感謝の念と彼の言論内容はまったく別に考えます。
伊藤氏は、小林恵子の著作をろくに読みもしないで批判を展開しました。
その結果、(1)内容を理解できないままの内容批判と(2)内容にかかわらない印象操作に終始されました。

彼の投稿では、文脈上明らかに私を想定して、「小林信者」と決めつけ、かつ、何の事実の指摘もなく
「面白くない」と揶揄しています(私は誰の信者でもありません)。

これでは議論になりませんし、私自身が新たに学ぶことも期待できません。また、学問道場の諸兄に対して、お目汚しが過ぎる事態にならないか心配になりました。そのため、私(2054)は今後、伊藤氏とのやりとりは控えることにし、今後は本掲示板に投稿をしないことにします。

最後ですので(伊藤氏への一定の感謝の念を持ちつつ)伊藤氏による小林説批判の問題点を考察してまいります。「お目汚しになっているじゃん!」とツッコミを入れられる方もいるかもしれませんし(実際そうなんですが)最後の投稿としてご容赦ください。

 

(1)内容を理解できないままの内容批判について

 

(1-1)聖徳太子について

(【550】の投稿7)より:引用はじめ)
小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、隋に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない
(引用終わり)

2054です。学会通説は「タシリヒコ=聖徳太子」、小林説は「タシリヒコ=聖徳太子=西突厥可汗達頭」ですから、そもそも全然違います。伊藤氏はなぜか「騎馬民族」というベールをはいでみれば、という条件を付加していますが、
騎馬民族征服説から「騎馬民族」を取り除いたら、何も残りません(笑)。
謎な条件付加ですが、仮にその条件だとしても騎馬民族の王=聖徳太子ですから、騎馬民族を取り除いたら、小林説は「タシリヒコ=取り除かれた条件=取り除かれた条件」となります。
結果だけみても、学会通説「タシリヒコ=聖徳太子」とは違います。
学会通説と小林説が同じとなれば、学会も小林恵子も驚嘆するでしょう。その全く違う見解を、謎な条件をくっつけて両者が「同じ」と言います。これは単なる詭弁です。

 

(1‐2)卑弥呼について

(【550】の投稿8)より:引用はじめ)
本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。

(引用終わり)

2054です。騎馬民族征服説を考古学の問題と決めつけているのは伊藤氏の持論で、それはご自由にすればいいと思います。しかし反対説を紹介するなら、正確にご紹介してください。
「卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり」と言っていますが、そんな記述はどこにもありません。

①紀元前3~4Cの邪馬台国が奄美大島にあり卑弥呼はその大巫女だったこと(海洋貿易の衰退とともに形骸化)
➁紀元前1C頃、北上する異民族(大月氏:オオモノヌシ勢力)に拉致同然に出雲地方に連れ出されたこと
③3世紀に江南出身の卑弥呼が高句麗東川王に殺害されたこと

小林説での卑弥呼の変遷は、上記のような3点に集約できます。3世紀には卑弥呼は殺害されていますが、この1回です。伊藤氏は「3回も登場させて、その都度、殺す」と言っていますが、「殺す」というのが勢力の減退や政治的失墜まで含むのであれば、ギリギリ理解可能です。
しかし上記の雑駁な伊藤氏の説明では「本当に殺した」と思っていそうですし、そう読めます。表現としても不適切です。

近代学問の「反証可能性」を言い出す前に(そもそも歴史学における反証可能性の意味が理解できていないフシがありますが)、「他者の批判をするなら、正確に引用する」という最低限のマナーは固守していただかないと、議論になりません。

 

(1-3)応神天皇と仁徳天皇について

上記の引用からすると、応神天皇と仁徳天皇は「親子」で決まり!と伊藤氏は判断されているようです。しかしその根拠は書かれていません。「そんなの常識だ」とでもいいたげな文章になっています。

しかし、応神も仁徳も怪しい血脈の天皇ばかりで、とても万世一系が真実とは思えません。
『記紀』には親子とあるが、本当だろうか?というのが議論の出発点なんですよ。
それを本も読まずに「トンデモ」扱いしているのは、「副島隆彦はトンデモだ、非常識だ、読む価値なんてない」とわめく低能な人たちと同じ所為です。それでいいんですか?

ポイントは「本を読まずに」というところです。いいですか?副島先生でも3日もかけて精読してメモにまとめているのですよ。『古代倭王の正体』は簡単そうに見えますが、現代思潮新社のシリーズ本5~6冊分を圧縮していますので、ついていくのは至難です。最初に読むなら、現代思潮新社のシリーズのほうがおすすめです。

なお、小林説では、応神天皇から仁徳天皇にかけて「王位簒奪」があったとします。その根拠は『広開土王の諡は仁徳天皇』(現代思潮新社)に詳しいので、そちらをご参照ください。

 

(1‐4)まとめ

以上、3点ほど伊藤氏の誤読(読んでいない、あるいは理解不足)についてご紹介しました。
伊藤氏は江上説の「騎馬民族征服説」と小林説の相違もよくわかっていないようで、騎馬民族征服説の内容にはいっさい言及していません。おそらくよくわかっていないのでしょう。だから、「騎馬民族征服説=江上説」でその説は学会で否定された。小林説は騎馬民族征服説である、だから小林説は「否定された学説を今さら展開している遅れた人」扱いしたのでしょう(参照【550】の投稿6)。
私は何から何まで間違っていると思います。

 

(2)内容にかかわらない印象操作について

上記のように伊藤氏は小林説について内容を吟味して批判する点については、簡潔に過ぎ、雑な批判しかできませんでした。その反面、記述量が多く分厚い批判を展開したのは、内容以外の部分です。端的に言えば印象操作です。

枚挙にいとまがありませんが、いくつか例を挙げます。

「江上波夫に挨拶していない」
「小林恵子は考古学者を目指すべきだった」
「無用に戦線を広げた」
「支離滅裂になっている」
「三笠宮との交流をひけらかしている」
「相手にしない、などと、ほざいている」
「岡田博士の著書ですら恣意的にしか引用できない程度の学力」
「真偽のほどもわからないお寺の古文書を持ち出して、ごまかすな」

伊藤氏は、小林恵子について「騎馬民族民族説を唱える江上氏にあいさつもせず、文献学では証明不能な学説を、遅れて学会に紹介して無視され、学会に友達もおらず、単に皇族との交流を自慢して、支離滅裂の持論を、低能な学力で述べているトンデモ人物である」といっているわけです。

よくもまあ・・・本も読まずにこれだけ文句をつけられるものだなあ~と感心してしまいました。
印象操作の意図がなく、怒りにまかせてそういっているだけなのかもしれませんが、単に小林恵子がいかに「ごまかしの、ニセモノか」を非難しているだけで、小林説の言説の内容について具体的な批評・検討を加えていません。
刑訴法の「悪性格の立証」のようなもので、弊害が多く、真実発見につながらない「誰得?」な言論です。

無用に戦線を広げた、支離滅裂・・・、本もまともに読んでいない伊藤氏にはわかりませんよね?
恣意的にしか引用できない程度の学力って、ご自身はどうなんですか?
人様に学力がないと批判できるぐらい、伊藤氏は有能なんですか?
伊藤氏は小林恵子の学力がどうしてわかるんですか。
そして、それらを日記帳ではなく、パブリックスペースで披露しているのです。

なお、伊藤氏は「人の健康状態について言及・批判をすること」と「人の健康状態について言及すること」の区別がついていません。私は(副島先生も)人の健康状態について批判をしていません。一緒くたにしないでいただきたい。伊藤氏は、「人の健康状態について言及したうえで批判をすること」の品のなさがわからないのでしょうか。私は読んで気分の良いものではありません。

「白内障?そんなの理由にならないんだよ、レーザー治療しなよ、私の母もそうしたんだから」と学者さんをつかまえて批判することを、品が良いんだと強弁を続けられるなら、もうそれは、どうぞ。私は貴殿に失礼千万と言われることも構いません。

憎まれ口を言えるのも健康で元気な証です。いろいろ伊藤氏には上記で苦言を申しましたが、冒頭で申し上げたた通り、感謝もしています。私は伊藤氏の投稿を読むことはありませんが、本掲示板で活発に自論を展開し、ご自身にとって納得のいく通史を完成させることを願っています。