【514】ブレイク:【513】へのご返信へのご返信
伊藤睦月です。2054さん、早速のレス、ありがとうございます。司馬懿=徳川家康説は、私の思い付きですが、239年、明帝の死後、249年に司馬懿が逆クーデタで実権を握ったという史実を念頭に置いたものです。なお、司馬懿の孫、司馬炎は、265年に魏の元帝から禅譲を受け、西晋帝国を建国します。2054さんのご指摘通り、238年の卑弥呼の朝貢のときには、諸葛亮を死に至らしめた英雄として、司馬懿は存在感を増しており、むしろ曹一族の方が警戒を強め、緊張関係はあったようですが、まだ表面化していない段階だと思います。明帝の死後、張玉蘭の夫、曹宇が新帝の後継人に指名されますが、4日後に解任されます。司馬懿の関与は不明です。
また、毌丘倹は、司馬懿と連携して、公孫淵を滅ぼした大功があり、司馬懿存命中は、忠実な子分として行動していました。司馬懿にはよほど心服していたのでしょう。
しかし、孫の司馬炎が元帝から禅譲を受け、西晋を建国すると、江南の呉と内通して反乱を起こしますが、逆に打ち取られます。最後は魏帝国に殉じたわけです。彼にとっては「禅譲」も「簒奪」と映ったのでしょう。
以上、岡田英弘『倭国』第三章をベースに記憶を呼び起こしました。
なお、下條本のとおり、魏→晋への禅譲は平和裏に行われ、最後の魏皇帝(元帝)は、殺されることなく、陳留王として、57歳まで生きたそうです。陳寿が三国志正史を書き上げたときはまだ存命だったそうです。両者の接触は確認されておりません。50年ほど前のNHK人形劇「三国志」では、禅譲のあと、元帝は暗殺されますが、これは1000年後にできた羅漢中作『三国志演義』に基づくもので、フィクションだと言われています。ちなみに、禅譲で前皇帝が、殺されなかったのは、後漢→魏、魏→晋、北周→北宋、の3回だけだと言われています。
とりあえずのレスでした。卑弥呼=張玉蘭説の重掲投稿は、後日拝見したいと思います。2054さんの投稿は、いつも、励みになります。今後ともお付き合いいただければ幸いです。
以上、伊藤睦月拝