【486】【485】伊藤氏の見解についての疑問点(3つ目)

会員番号2054 投稿日:2024/06/23 13:49

<3点目>旧唐書に倭国王の名前が記されなかった理由
(引用はじめ)
【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(2)
(4)当時の倭国に王はいたのか、さらに私の想像が続きます。中国正史(旧唐書東夷倭国)に倭国王の名前が一人も記されていないのはなぜか。それは倭国には王がいなかったからだ、と考えます。倭国は華僑が合議制で運営していた国だったと、私、伊藤は考えます。その代表者をとりあえず。「王」としたにすぎない、と考えます。
(引用終わり)

会員2054です。伊藤氏の記述の通り、旧唐書には孝徳から孝謙までの諸天皇の名が記されていない。しかし、その理由は倭国に実体としての王朝が不在だったことを意味しません。少なくとも『書記』をはじめとした諸文献に歴代の天皇は表記されています。これを否定して「王は不在」とするのであれば、それ相応の根拠が必要です。
国内での実態はどうあれ、旧唐書に諸天皇の記載がなかった事実は、唐の意のままにならない王朝だったことを示していると考えられます。唐は天智朝を正統とし、天武朝系天皇を認めていません。また、唐はタリシヒコ王朝が山背倭王の時代に滅んだあとは、倭は血統として別系となったと認識しているのでしょう。これが旧唐書にいう「倭国の別種」という意味と解釈します。

私は以下にある小林説の説明に理があると思います。
(引用はじめ)
欧陽脩らが編纂して1060年に完成した『新唐書』(列伝145東夷)には、孝徳・斉明・天智・天武から聖武・孝謙に至る歴代の天皇を記録している。しかし百年以上前の945年に成立した劉昫の『舊唐書』(東夷伝)には倭王の姓は阿毎氏とある。(中略)『旧唐書』には648(貞観22)年になって新羅を附して表を奉り、唐国に起居を通じてきたとあるのみで、孝徳から孝謙に至る諸天皇の名を一切、挙げていない。(中略)起居とは国王の身辺の様子をいうから、この後、天皇の身辺も含めた国情を新羅を通じて唐国に知らせていたという意味である。起居を通じたとあるところからみて、『旧唐書』の編者が当時、孝徳以下の天皇を認識していたことは間違いない。おそらく唐朝の意のままにならなかった孝徳から孝謙に至るまでの諸天皇を無視して、その名を記載しなかったのだろう。
『旧唐書』では、その後、半世紀あまり空白ののち、唐突に702(長安2。本紀による)年10月に粟田真人が朝貢し、日本国は倭国の別種だが、倭国という国名を良くないとして日本にしたと報告してきたとある。日本が倭国の別種という意味は、当時の文武天皇が倭王阿毎氏、つまり『隋書』にいうタリシヒコ(小林説では聖徳太子)とは別系で、倭王の阿毎氏は山背皇子で途絶えたといわんとしたのだろう。
(引用終わり)

以上となります。なお、私は歴史研究家でも何でもありません。原典に逐一あたっている時間的余裕もなく、明日からは仕事に忙殺されるいっかいの庶民に過ぎません。【484】において伊藤氏から原典の教示を求められていますが、できません。この点、取り急ぎ、返信させていただきます。(追記)冊府元龜の原文ウェブサイトを見つけましたので、追記します。https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=189858