【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)
伊藤睦月(2145)です。今回も副島先生の文章の引用から始めます。それにしても、20年前は副島先生の文章を引用してコメントするなんてだいそれたこと、副島推しとして、恐れ多すぎ、と思っていました。しかし、今では割と平気でやっている。これも年寄りになった功罪と、この副島系掲示板の「補集合」のおかげだ。だから、ほかの副島推しみなさんも、「重たい掲示板」に無理して投稿するのでなく、もっと気軽に(この掲示板に)投稿したらよいのに、と思います。(あくまでも個人的意見です)
さて、続きを始めます。
(20)(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁
伊藤睦月です。ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、
唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。そうなると恐らく3度目(の誘い)はない。すなわち今度は唐帝国が日本(大和王朝)を滅ぼしに来るぞ、という恫喝、(まるで500年後のモンゴルみたいだ)ということになる。で、なぜ唐は攻めてこなかったのか。天智天皇が、厭戦気分マックスになって、唐の誘いに乗らなかったのなら、なぜビビりの天智はすぐに朝貢使を出してとりあえず、その場をとりつくろわなかったのだろうか。もしそういう意図を持った使者ながきたのなら、なぜ30年以上放置していたのだろう。間に新羅が邪魔して遣唐使を派遣できなかった、というだけでは、私、伊藤は、もやもやしてしまうのです。
(21)実際、唐帝国が、高句麗を滅ぼしてから(668年)、新羅は火事場泥棒みたいに高句麗と、百済の故地を奪って、朝鮮半島を統一するが(676年)、それに怒った唐帝国は何度も懲罰戦争をしかけて、新羅王を殺したり、捕縛したりしている。しかし、新羅はすぐに朝貢使をだして唐に許しを請い、ほとぼりのさめたころに、また、反乱を起こし、を繰り返している。
そして、とうとう、「会昌年間(841~846年)以降は新羅からの朝貢は二度と来なかった」(新唐書東夷新羅)と中国正史にも書かれたように、唐をあきらめさせ、完全独立を果たしている。(高麗に滅ぼされたのは、936年のこと)
伊藤睦月です。だから、唐からの2回にわたる使者は、日本(大和王朝)に唐への朝貢を促すことではなく、当時行方不明であった百済反乱の主犯、余豊璋=藤原鎌足(及び中大兄皇子=天智天皇)の捜索と捕縛が目的であったという(私だけの)ファンタジーを現時点では私、伊藤は、支持しております。
(22)(引用開始)なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。(引用終わり)
伊藤睦月です。これは、史料の裏付けの全くない、完全なファンタジーです。しかし、高市皇子の母親が宗像氏の出でわることは、日本書紀にも出てきますし、当時の沖ノ島経由の新羅ルートの存在も事実のようです。(これらを評価されて、ユネスコの世界歴史遺産に登録され、同地域にある「光の道」(宮地嶽神社参道)とあわせ、観光資源として、地元ではかなり盛り上がっています。(もちろん学術調査研究も地道にされているようです)今後、高市皇子(息子は長屋王)の勢力範囲や、宗像氏の事跡などが解明されるといいな、と思っています。
以上で、「白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。」の補足説明を終わります。ご一読くださった方には深く感謝します。
(以上、伊藤睦月筆)
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