【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(3)

伊藤 投稿日:2024/06/19 11:46

伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足説明を続けます。

(6)倭国が消滅した648年前後は、後年の百済滅亡(660年)、白村江(663年)にいたる伏線としてなかなか忙しい時期です。一応チェックしておきましょう。

(7)まず、日本国(大和王朝)

大和王朝では、厳しい政争の末、645年蘇我入鹿(=聖徳太子:副島、関説)を中大兄皇子、藤原鎌足のグループが暗殺し、政権獲得のきっかけをつかみます。(岡田説(日本は原住民と華僑の協働でつくられた説)からの展開で原住民(排外派)が華僑(国際派)を倒した、とされていますが(引用はすべて私の記憶に頼っていますが、ふじわら掲示板に免じて、ご容赦ください)、関裕二説では、親百済路線をとる豪族(原住民とほぼ同義)代表の中大兄皇子・藤原鎌足(=余豊璋)が、全方位外交路線をとる豪族(原住民)代表の蘇我入鹿(聖徳太子)を倒した、としています。

(8)伊藤睦月です。私は、関裕二説の、藤原鎌足=余豊璋説、蘇我入鹿=聖徳太子説を支持しております。但し蘇我入鹿は、副島説とは、少しニュアンスが違ってまして、蘇我氏は、天皇家の譜代の家臣である、大伴氏や物部氏と同じくらい古い時代に、新羅地域から渡来し、ほとんど土着化した華僑、だと考えております。(親新羅派の原住民代表)

(9)日本書記をみると、継体朝(6世紀初め)のころから、大和王朝は、新羅に厳しく百済に甘いです。このころから、百済派の華僑たちが、入り込んでいることがわかります。大和王朝では、政治権力は原住民の王が握り、華僑には渡しませんでしたが、権力基盤強化に、華僑の技術力、財力を利用したのです。(後年、渡来人系の貴族は5位の国司クラス以上の氏族はおりません。有名な秦氏も官位は低いです)華僑側も利益確保のため、原住民の王とズブズブの関係になりました。

(10)華僑(すべて朝鮮半島経由で渡来しました。自分たちの先祖は中国の名家だと自分で言っているだけです)たちも、また出自により、百済系と新羅系に別れ、それを百済、新羅本国の争いに利用され、大和王朝の原住民の王(豪族)たちも、親百済、親新羅系に別れて、権力闘争をやっていたわけです。昔も今も属国の政局なんてこんなものでした。

(11)高校レベルのテキストを見ますと、百済系渡来人の氏族名は結構でてきますが、新羅系渡来人の氏族は、山城の秦氏くらいです。これは、蘇我氏の方が百済系より早くから渡来し、土着化していく過程のなかで、他の新羅系華僑を取り込んでいったと思います。だから、政治勢力としては、より強力で、継体朝以降の政局をリードしていったわけです。これを「ライバルのヘッドをつぶす」ことで、形勢逆転を狙ったのが、百済王子余豊璋と、中大兄皇子で、彼らは賭けに勝ったわけです。

(12)蘇我入鹿は、「鞍作臣(くらつくりのおみ)とよばれ、法隆寺の仏像をつくったのも、「鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。二人は同族だったのでしょう。私、伊藤は、蘇我氏は華僑とはいっても、商業系ではなく、産業系、職人系よりだと思います。意外と実直な人たちだったのではないか、仏像という「きらきらし」ものにも、職人的なマインドに刺さったのだと思います。意外といけてる一族だったのでしょう。だから、意外と早く原住民ともなじんでいったのではないか、法隆寺の仏像を拝みながら想像しています。

(13)また、「鞍作」なら馬具ではないですか。その彼らが、古くから日本にいる、ということは・・・・?あれ、副島=江上説「騎馬民族征服説」までつながるかも。このファンタジーは保留しときます。

(14)このころは、古くから対立関係にあった、百済と新羅は、互いに戦争準備を始めました。そのため。(倭の五王以来)軍事力では定評のある、大和王朝の取り込みを図りました。(支配者として大陸に来るのは困るが、傭兵としてなら、大いに歓迎する。明治大正期の朝鮮、中国と日本との関係を想起させます。白村江の「倭人」も連合軍ではなく「倭人傭兵部隊」(フランス外人部隊、ロシア軍事顧問団のような存在)だったのでないか。だから中国側の史料には残っていない。

(15)そのため、新羅側は、大谷翔平クラスのエース級人材を投入しました。その人の名は金春秋、新羅の英雄王、武烈王、と新羅の民から尊称された人です。この人は「人質:日本書記」の名目で大和王朝に入り込み、多数派工作をしました。しかし失敗しました。彼が来日したのは、647年。多数派工作の頼みのつなであった、蘇我入鹿(聖徳太子)はすでに暗殺され、余豊璋(藤原鎌足)に取り込まれた、中大兄皇子が、自らの権力基盤を固めるべく、蘇我派の残党(蘇我倉山田石川麻呂、孝徳天皇、有間皇子など)を排除していたころです。また、余豊璋(藤原鎌足)は倭国を乗っ取り、戦争準備を始めていました。金春秋はあっさり諦めました。そして彼はなんと唐帝国に向かいました(648年)そして唐軍の出兵を実現させました。これで新羅と百済の運命は決まりました。

(引用はじめ)新羅は、官人の衣冠のきまりを改め、中国の制度にならいたい、と申し出たので、唐太宗皇帝は宮中秘蔵の官服を出して(金春秋)に賜った。(新唐書東夷新羅)(引用終わり)とあります。もうなりふり構わずです。あの「貞観政要」の伝説的名君、太宗李世民まで動かしたのですから、金春秋、デカイ、デカすぎる、ただ者ではない。660年、唐・新羅連合軍(これは中国正史に明記されています)は百済を滅ぼしました。それを見届けて、662年金春秋は亡くなります。その後「武烈王」の称号が追贈されました。白村江の戦い(663年)では、唐軍主体で、新羅は登場しません。新羅は百済の残党なんて眼中になかったのです。朝鮮統一の方に関心が移っていったと、私、伊藤は考えます。世界史的に見れば、660年の百済滅亡が重要です。白村江は、愚かで悲しきエピソード、に過ぎない、とあえて決めつけます。

この補足説明、次回も続きます。

(以上、伊藤睦月筆)