【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(2)

伊藤 投稿日:2024/06/18 16:26

(引用はじめ:第2パラグラフ)

2)白村江の戦いのとき、倭国(福岡市博多、糸島、佐賀県唐津市一帯)はすでに存在せず、百済の一部となっていた。来るべき新羅、そして背後にいる唐帝国との戦いを想定していた百済側にとって、倭国地域は、兵站基地として必要だったからだ。百済側は、‘遅くとも648年までには、倭国を手に入れ、660年の百済本国滅亡には間に合わなかったが、失地回復の戦い(663年白村江)には間に合わせた。日本(大和王朝)を取り込むのに時間がかかりすぎた。だから「旧唐書倭国は、648年で終わっているのだ。この年をもって、唐帝国は倭国が消滅したことを確認したのであろう。最後の使いが知らせたのであろう。なお、倭国乗っ取りの首謀者は、百済王子豊璋(=藤原鎌足:関裕二説)である。

(引用終わり)

伊藤睦月です。

(1)倭国の範囲ですが、副島先生の本(副島隆彦の歴史再発掘「邪馬台国はどこにあったのか、最新の話題」)にもありますように、「福岡市博多」ですが、もう少し補足しますと、西側は、福岡市に隣接する福岡県糸島市、佐賀県唐津市。南側は、太宰府市(博多平野から、少し高台になっている:大宰府政庁がありました)北側は海。そして東側は、これも博多平野からみて高台にある、立花山、名島、博多湾の先端にある志賀島。までの範囲を指すと考えられます。西側の糸島や唐津は、魏志倭人伝のいう、「伊都国」にあたりますが、倭国の領域に含めました。この地域は、昔から舟の材料である良質な木材がとれ、後年豊臣秀吉が朝鮮出兵の前線基地(名護屋城)をこの地に作っています。そして重要なのは、東側。立花山、名島は古来より、博多平野を押さえる軍事的要衝、とされ、戦国時代には、島津、大友、毛利、の争奪の地となり、江戸時代初期に、黒田長政が、福岡平野に福岡城を築くまで続きました。

(2)そして、さらにその東側に注目してください。福岡市福間、赤間、遠賀川までの広大な地域は。「胸形」(むねかた)とよばれ、天然の良港があり、そこから、沖ノ島もしくは対馬経由で朝鮮半島東側に到達する航路(これを仮に新羅ルートとします)を押さえていたのが、海洋民族「宗像(むなかた)」氏の勢力範囲でした。大海人皇子(天武天皇)の長男、高市皇子の母親は宗像氏の族長の娘です。一方で西側博多湾、糸島、松浦を出発して、壱岐、対馬、を経由して朝鮮半島西側に到達するコース(これを仮に百済ルート)とします。このルートを押さえていたのが、倭国です。中国側からは「奴国の後継」とみなされていました。ここまで書くとなにかぷんぷんにおいませんか?

(3)かように倭国の地は、日本側から百済への最短、最適地なので、兵站基地として最適です。(豊臣秀吉も同じ考えでした)そこで百済側としては、どうしても確保しておきたい。それは、倭国を百済のものにしてしまうのが、一番です。そこで、余豊璋はなんらかの方法で、倭国を乗っ取ったと思います。史料が見つからないので、私の想像にすぎませんが内心自信を持っています、。

(4)当時の倭国に王はいたのか、さらに私の想像が続きます。中国正史(旧唐書東夷倭国)に倭国王の名前が一人も記されていないのはなぜか。それは倭国には王がいなかったからだ、と考えます。倭国は華僑が合議制で運営していた国だったと、私、伊藤は考えます。その代表者をとりあえず。「王」としたにすぎない、と考えます。中世以降、博多は商人たちの合議制で運営されていました。少し後の堺も同じことです。商人は華僑の末裔です。日本という国は、原住民と華僑の協働でできた国だとすれば、(副島隆彦、岡田英弘)、倭国はまさに華僑の国です。そして倭国の華僑たちをまとめていたシンボルが「漢委奴国王」の金印でした。これは、倭が中華帝国の日本におけるカウンターパートの証です。いちいち朝貢しなくても、この印が押印された文書があれば、合法的に中国と貿易ができたスーパーアイテムでした。これを、余豊璋はなんらかの方法で手に入れ、倭国の華僑たちを支配したのでしょう。だから、私、伊藤は、いわゆる金印はこの時代まで存在していた、と考えております。江戸時代に金印が志賀島で埋もれていたのは、白村江の敗戦や郭ムソウの占領などの混乱期に華僑たちが取り戻し、宗像までもっていこうとしたのではないか。志賀島から宗像までは、舟で大変近い距離です。しかしここで力尽き、埋もれてしまった、のではないか、と考えております。空想するのは実に楽しい。

(4)百済に乗っ取られた後の倭国は、百済の兵站基地として開発されました。兵糧、武器、武具その他軍事物資、金品の備蓄、渡海用ジャンク船の建造、のちに唐の郭ムソウは、2000人の兵を47僧のジャンク船に乗せて来日しますが、一艘あたりの積載人員は約50名。これを基準にすれば、白村江のときは、2万8千以上の倭人兵が渡海したそうですから(副島隆彦)、少なくとも560艘以上必要で、これは、中国正史(新唐書東夷百済)では、(唐水軍から、百済水軍の舟が)400艘以上焼き払われた、という記述からみて、そんなにおかしな推計ではないと思います。これらを準備するためには、倭国という豊かな地域で十数年かかった、と私、伊藤は考えます。660年の百済本国の滅亡には間に合いませんでした。でも663年、3年後には間に合いました。日本(大和王朝)は、あまりやる気はなかったようです。余豊璋(藤原鎌足)の政治工作で斉明天皇と中大兄皇子をなんとか、朝倉宮(大宰府の南側)まで引っ張ってこれましたが、そこまでで、軍事物資や兵士の大半は倭国の男子を徴用しなければなりませんでした。一応大和朝廷の指揮官がついたようですが、意外と士気は低かったのではないかと思います。

(5)倭国から唐帝国への最後の通信は、648年、「新羅に付して(こと付けて)表を奉り、」新羅の唐帝国への使者にこと付けた、とのことです。命がけだったでしょう。おそらく宗像氏を通じて送ったでしょう。このころはまだ、唐新羅関係は良好でした。その手紙には、倭国の現状、余豊璋(=藤原鎌足)のことも書いてあったでしょう。白村江の敗戦後、唐から郭ムソウが早々に来日してきうたのも、そのことを確認するためだったかもしれません。2000名の兵というのは、戦闘員ではなく。(本当に日本と戦争する気なら、兵士の数が足りません)特別機動隊、といった。捕縛部隊であるとすれば、納得できる、と私、伊藤は考えます。

(以上伊藤睦月筆)