【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。
伊藤睦月(2145)です。今回は、第1パラグラフに関して補足説明します。
(引用はじめ:パラグラフ1)
白村江の戦い(663年)は、当時の世界覇権国、唐帝国とすでに滅亡した百済の残党との戦いである。唐帝国にとっては、辺境の部族反乱の鎮圧、百済を滅ぼした後の掃討戦、という程度の認識でしかなかった。だから、中国正史では、皇帝本紀でなく、当事者の「新唐書東夷百済」や、部下の手柄話(劉仁軌列伝)にしか、この戦いの記事が記載していないのだ。「東夷日本」、「東夷新羅」にも記事がない。日本書紀では、唐・新羅連合軍対日本・百済連合軍といった、まるで日本が戦いの当事者、主役であるかのように描かれているが、日本側の印象操作であろう。
(1)中国正史(新唐書東夷百済)では。白村江の戦いよりも、百済本国の滅亡(百済王。皇太子の敗北)の方が記述量が多いです。また、「新唐書東夷新羅」では、白村江の戦いのことは、一行も出てきませんが、百済滅亡のことは3行くらい出てきます。
(2)また、「旧唐書東夷日本」「新唐書東夷日本」では、百済滅亡も、白村江の戦いの戦いも一行もでてきませんが、日本側が編纂した、「日本書紀」には、両方の記述があり、白村江の戦いとその関連のほうが、記述量が多いです。
これからみても、中国側は、百済滅亡を重要視し、日本側は、白村江の戦いの方を重要視しています。中国側の方が、優先度のつけ方が適切だと思います。
(3)日本側が百済側を支援始めるのは、660年の百済滅亡以後です。日本の人質であった、百済王子余豊璋を王位につけ、失地回復のための戦いに臨ませます。余豊璋は百済内の支配権を確立するため、自分を擁立してくれた、福信を殺しました。日本水軍は、唐水軍と戦って負けます。そして日本水軍に同乗していた余豊璋は高麗(高句麗)に逃れます。ここまでが、日本書紀が描く白村江の戦いです。陸戦はおきてませんが、百済に残った人々は、各地でゲリラ戦を行い、結局は殲滅されてしまいます。(新唐書東夷百済)なお、新唐書東夷百済では、余は、「行方知れず」とされます。余の高麗での足跡はわかっていませんから、新唐書のほうが、より信用できると思います。
伊藤睦月です。この日本書記の記述が本当なら、唐と日本(大和王朝)は、対等(?)に戦ったことになりますが、中国側に全くそれに関する記述がないのは、なぜでしょう。日本書紀が「日本水軍」と書いているのは、実は「百済水軍」で構成員が倭人だった、というにすぎないのでは、と私、伊藤は疑っています。
(引用はじめ)
百済の扶余方豊(=余豊璋)の軍勢は白江口(=白村江)に駐屯していたが、唐軍はこれと四度にわたって合戦し、いずれも百済軍を」打ち破り、舟四百艘を焼き払った。豊は逃げてゆくえもしれなくなった。偽王子の・・・・は。敗残の手勢と倭人を率いて命乞いをした。(新唐書東夷百済)
(引用終わり)
伊藤睦月です、これで中国側が誰を「敵」とみなしていたか、わかります。唐帝国は、あくまでも「百済」と戦ったのであって、倭国や大和王朝と戦ったという認識はありません。せいぜい「百済軍倭人部隊」「倭人義勇軍」といったところでしょう。ところで、渡海用の船や兵糧、倭人兵士はどこで調達したのでしょう。それは、「倭国」だと思います。大和王朝からの援軍や支援物資は意外とすくなかった。(唐軍がそれろ気づかないくらい)しかも「百済軍」として調達可能なくらい。それは百済と倭国が一体化してないとできないこと。そうなると、旧唐書倭国の記述、その終わった年と終わり方が気になってきます。私のファンタジーはますます膨らむばかりです。
(以上、伊藤睦月筆)