「君側の奸(くんそくのかん)を除く」というワードについて、その出典を確かめてみた。

かたせ2号 タゴサク 投稿日:2025/12/20 06:31

件名_「君側の奸(くんそくのかん)を除く」というワードについて、その出典を確かめてみた。

かたせ2号です。
本日は2025年12月20日(土)です。

さて、日本史の中で「君側の奸を除く」というタームが出てくる場面が、一度だけあって、それが2・26事件です。

「君側の奸   二・二六事件」に関するAI回答

(引用開始)
「君側の奸 二・二六事件」とは、1936年(昭和11年)2月26日に陸軍皇道派の青年将校らが決起し、「君側の奸(奸臣)」を排除して国家改造を試みたクーデター未遂事件で、首相官邸などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害しましたが、昭和天皇の激怒と軍の鎮圧により失敗に終わり、その後、軍部が政治的影響力を増し、日本が戦争へと突き進む転換点となりました。
(引用終わり)

かたせ2号です。
この事実そのものは、よく知られているので、それはそれでいいのですが、
そういえば、この「漢語」の出典は、どこなのか、知らないよなあ、と先週、気づいてしまいました。

調べてみると、以下のようなことだったので、ご紹介しておきます。

明の永楽帝の「靖難の役(せいなんのえき)」が出典でした。
「世界史の窓」のサイトから。
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-025.html

(抜粋開始)
靖難の役(せいなんのえき)とは

1399~1402年の明の洪武帝死後の帝位継承の争いのこと。
南京の第2代建文帝に対し、北平(後の北京)の叔父燕王朱棣が
「君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる」ことを口実に挙兵し
最終的に燕王が勝利し、1402年に永楽帝として即位した。

靖難の変ということもある。
燕王は太祖洪武帝の第4子で、武勇に優れていたので、対モンゴルの要衝である北平(現在の北京)に封じられていた。洪武帝は長男の朱標を皇太子としていたが、その皇太子が先に死んでしまい、その子を皇太孫とした。1398年に洪武帝が死去し、皇太孫が即位し、建文帝となった。建文帝は皇帝権力の強化を図り、有力者の領地の削減を打ち出したのに対し、北平の燕王が反発して挙兵した。燕王が挙兵の理由として、「君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる」、つまり建文帝の側近の奸臣をとり除き朝廷の危機を乗り切るということを掲げたので、「靖難の役」(役は戦争の意味)という。要するに叔父と甥の戦いであるが、まる4年間を要する内戦となり、1402年に南京城が陥落し、建文帝が敗れて自殺、燕王の勝利で終わった。燕王は同年即位して成祖永楽帝となった。
 なお、靖難の役と「靖康の変」(1127年、金が北宋を滅ぼした戦い)を取り違えないこと。

靖難の役の実情

 靖難の役は、勝利者となった永楽帝のイメージから、短期間にその圧倒的な勝利で決着した、と捉えられがちであるが、実情はそうではなかった。北平で挙兵した燕王朱棣は、南京の宗家の皇帝に反旗を翻したのであるから、儒教の理念からすれば「大義名分」のない、叛逆でしかなかった。そこで朱棣は「君側の奸」を除くのが挙兵の目的であると言わざるを得なかった。当時の価値観から言えば、圧倒的に建文帝側に正義があったのであり、燕王の立場には弱いものがあった。しかし、建文帝自身にも弱気な性格からか、叔父である燕王に対する遠慮と、その武勇に対する恐れがあったため、決然たる態度をとれず、北伐軍に対しても「燕王の命を取ってはいけない」と命令する始末だった。双方に戦争に対する正当性と、勝利への自信がないまま始まったため、この内戦は3年以上かかることとなってしまった。<靖難の役については、寺田隆信『永楽帝』中公文庫が詳しい。>

Episode 靖難の役の番外編

 明が靖難の役で内乱状態になったことは、周辺諸国にも影響を与え、北方のモンゴルが再び優勢となった。また、遠く西アジア一帯を征服しティムール帝国を立てたティムールは、明がモンゴルを討ったことに対し、復讐の機会をねらっていたが、靖難の役が起こったことを知り、明を叩く好機ととらえ、1404年、急遽20万の大軍を率いて明遠征に出発したが、翌年、途中のオトラルで急死し、ティムールと永楽帝という両雄直接対決は実現しなかった。

靖難の役と東アジアの情勢

国際的な認知を得る必要のあった、室町幕府第三代の将軍、足利義満は、倭寇禁圧を条件に明と国交を開こうとして、1401(応永8)年に「日本准三后道義」と称して使節を派遣した。
その時の皇帝は建文帝だったが、すでに南京で朱棣が挙兵、靖難の役が始まっていた。建文帝が義満を「日本国王」に冊封した使節が日本に着いた頃には既に建文帝は追いつめられていた。義満は再び国書を送ろうとしたが、建文帝と永楽帝(朱棣)のいずれが明の覇権を握るか判断がつかなかったので国書を二通作って使者を派遣した。
その使者がついた1402年には永楽帝が即位しており、早々と義満が国書を提出したことを喜び、国交を開き、勘合貿易を開始することになったのだった。
(抜粋終わり)

かたせ2号です。
世界史において、ティムールと永楽帝と足利義満が同時代の人物であることを、
容易に理解、納得ができる、良い文章だと思います。

ちなみに、靖難の役における、永楽帝と建文帝は、叔父と甥っ子の間柄で、奇しくも、日本の壬申の乱における天武天皇と大友皇子との関係と同じです。こちらも叔父と甥っ子の関係。そして、叔父さんが勝利した事実は、どちらの戦役にも共通しています。

以上、ご参考まで。