私説:日本書紀、古事記の正体(3)日本書紀は、中国に渡っていない。

伊藤 投稿日:2024/12/28 22:32

伊藤睦月です。

(1)日本書紀は、立派な漢文で書かれているのに、遣唐使は、中国に持ち込まなかった。日本書紀が完成(720年)してから、7回派遣されている(733年、752年、759年、777年、779年、803年、837年)が、中国正史にその記事がない。後世の「宋書日本伝」には、「年代記」を提出したという記事がみえる。しかし、帝紀(年代記)と旧辞(エピソード集)の両方から構成されている、日本書紀は中国に持ち込まれることはなかった。日本書紀から、「旧辞」を除いた「帝紀」部分だけを提出したのだろう。「帝」という題名を遠慮したのだろう。日本側の歴史書(続日本紀など)には、遣唐使派遣のために船を建造したとかの記事は出てくるが、日本書紀持参の記事はない。天武天皇による、日本書紀の編纂命令(681年)や完成報告の記事はある。これは奇妙だ。そして、その翌年には、早速、当時の官人(役職についている貴族全員)を対象にした勉強会(日本書記講莚)が開催されている。この後、何回も開催されている。

(2)なぜ、中国に行かなかったのか、あくまで私説であるが、その理由を考えてみる。

(2)-1:日本書紀には、歴代倭王を、「天皇」と表記していたため、中国側に提出できなかった。

(2)-2:過去の中国正史(晋書、宋書、隋書など)と矛盾する記述があるため。

 例えば、「邪馬台国の朝貢」、「倭の五王の朝貢」の記述がない、中国に日本の王権の正当性をアピールするには、過去の実績を強調することが大事だと思うが、それがない。

 隋書にある、タシリヒコの記載がない。特に、タシリヒコ問題は結構深刻で、例えば、守谷健二氏は、この不都合を解決するため、「稗田阿礼」なる人物から、「聖徳太子」という架空キャラを創造し、「隋書」の記述を書き換えさせるよう、古事記で遺言した、という説を立てているくらいだ。(自分の記憶ですが)

2-(3)中国側にあまり、蒸し返してほしくない、史実の記載がある。(歴代倭王による、不倫・近親相姦・殺人などの不適切行為、遣隋使国書紛失事件、白村江の戦い、壬申の乱など)馬鹿正直にもほどがあるだろう。

実は、私、伊藤は別の仮説を考えている。

(2)-4:そもそも、日本書紀は国内向けに作成された。立派な漢文は、あくまでも「箔づけ」だった。

 これについては、日本書紀編纂の真の目的、背景等についての考察が必要だ。(あくまで、伊藤のファンタジーですが)

以上、伊藤睦月筆