白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(サマリー)

伊藤 投稿日:2024/06/18 10:15

伊藤睦月(2145)です。昨日予告していた、伊藤のファンタジー、そのサマリー(要約)をまず投稿します(表題を短めにしています)

1)白村江の戦い(663年)は、当時の世界覇権国、唐帝国とすでに滅亡した百済の残党との戦いである。唐帝国にとっては、辺境の部族反乱の鎮圧、百済を滅ぼした後の掃討戦、という程度の認識でしかなかった。だから、中国正史では、皇帝本紀でなく、当事者の「新唐書東夷百済」や、部下の手柄話(劉仁軌列伝)にしか、この戦いの記事が記載していないのだ。「東夷日本」、「東夷新羅」にも記事がない。日本書紀では、唐・新羅連合軍対日本・百済連合軍といった、まるで日本が戦いの当事者、主役であるかのように描かれているが、日本側の印象操作であろう。

2)白村江の戦いのとき、倭国(福岡市博多、糸島、佐賀県唐津市一帯)はすでに存在せず、百済の一部となっていた。来るべき新羅、そして背後にいる唐帝国との戦いを想定していた百済側にとって、倭国地域は、兵站基地として必要だったからだ。百済側は、‘遅くとも648年までには、倭国を手に入れ、660年の百済本国滅亡には間に合わなかったが、失地回復の戦い(663年白村江)には間に合わせた。日本(大和王朝)を取り込むのに時間がかかりすぎた。だから「旧唐書倭国は、648年で終わっているのだ。この年をもって、唐帝国は倭国が消滅したことを確認したのであろう。最後の使いが知らせたのであろう。なお、倭国乗っ取りの首謀者は、百済王子豊璋(=藤原鎌足:関裕二説)である。

3)日本書記によると、戦後、671年、壬申の乱(672年)の直前、「郭務ソウ」という唐帝国からの使者が2000人の兵とともに、47艘の船で、来日し、筑紫(倭国地域)に翌年まで駐留している。その来日目的は、百済残党の頭目、余璋(=藤原鎌足)と共犯者中大兄皇子の捕縛及び、百済残党の兵站基地であった、倭国地域の占領と地域内での備蓄物資や女の略奪、戦いの犠牲者のための報復、である。ところが、余璋(藤原鎌足)は、すでに死亡しており(669年)、中大兄皇子は、日本王(天智天皇)に即位していて、うかつに捕縛できなくなっていた。そのうえ、重病で死にかかっていたため、天智天皇の監視に切り替え、翌年天智天皇の死亡を確認してから、(略奪・報復を完了した)兵士たちを引き連れ、帰国した。

 なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。

次回から上記サマリーの補足説明を投稿します。

(以上、伊藤睦月筆)