根拠資料 高山右近が開城に応じなければ、彼の面前で司祭らをことごとく十字架にかけるであろう(BY信長)

かたせ2号 投稿日:2024/04/03 06:37

単なる深読みですが、それまでの強行路線を変えて、石山本願寺との和解を信長が進めたのも、イエズス会による指示かもしれないです。信長には最期まで知らされないまま、本願寺に代わって信長が、イエズス会の敵認定されたのかもしれない。いまではあまり注目されない荒木村重の謀反が原因で、戦国史が大きく流れを変えた可能性があります。

https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/18032696/

(抜粋)

その村重が1578年、突如信長に叛いて本願寺側に寝返る。村重の与力(寄騎。室町時代以降,大名や有力武士に従属する下級武士をさした)だった高山右近も高槻城に拠って信長に抗した。高槻は堅固な城でおとすのが難しい。そこで信長は、イタリア人のイエズス会宣教師オルガンティーノ(ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。)に右近の説得を命じる。だが、右近は応じない(右近の妹と息子が村重に人質にされていた)。信長は都の全宣教師を集めて、右近が開城に応じなければ、彼の面前で司祭らをことごとく十字架にかけるであろうと右近に伝えよと命じる。

(以下、データ)

「大航海時代の日本」8 織田信長VSイエズス会(2)

 信長がイエズス会を利用したのは軍事物資調達面だけではない。宣教師の信徒への影響力も天下統一事業の過程で活用する。代表例は1579年の「高槻開城事件」。どんな事件か?

戦国時代、仏教勢力の中心となったのは、大坂の石山本願寺。信長の最大の敵となり、10年に及ぶ死闘(1570年~1580年)を繰り広げた。石山本願寺は、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。その勢力は 信長軍を、はるかにしのいでいた。石山本願寺があったのは摂津国。そして信長のもとで大出世を遂げ、1574年から摂津国という大領(37万石)を任せられていたのは荒木村重。その村重が1578年、突如信長に叛いて本願寺側に寝返る。村重の与力(寄騎。室町時代以降,大名や有力武士に従属する下級武士をさした)だった高山右近も高槻城に拠って信長に抗した。高槻は堅固な城でおとすのが難しい。そこで信長は、イタリア人のイエズス会宣教師オルガンティーノ(ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。)に右近の説得を命じる。だが、右近は応じない(右近の妹と息子が村重に人質にされていた)。信長は都の全宣教師を集めて、右近が開城に応じなければ、彼の面前で司祭らをことごとく十字架にかけるであろうと右近に伝えよと命じる。城内では、開城と抗戦とで意見が割れ、収拾がつかない状況に陥る。さらに隠居した父が、「もし織田信長に寝返るなら切腹する」と言い出したことで、右近の悩みは、極限状態に達した。そして右近が出した答えは、人質とキリシタンの両方を救うため、「すべてを捨てる」ということ。どちらにも加担せずに領地も家族も捨て、単身で織田信長のもとへ投降。右近は、頭を丸め、紙衣(「かみこ」和紙で作った着物)のみを身に着けた姿で、織田信長のところへ現れた。この潔さに感じ入った織田信長は、人質の救出と領地の倍増を約束し、出家を止めるように、高山右近を説得。この手厚い申し出に対して断り切れなかった右近は、結局武将として、織田信長に仕えることになったのである。

 この「高槻開城事件」が起こったのは1579年。翌1580年3月、顕如(浄土真宗本願寺第11世宗主)は勅命によって信長と和睦し石山本願寺を退出。石山本願寺は信長に引き渡された。そしてこの年、完成した安土城が一般に公開された。その威容に接したオルガンティーノは、安土城化の山腹にひろがる武家屋敷の一角に修道院を建てたいと思う。それが叶うなら、イエズス会の威信がいっそう高まることになるし、武将間に教えを広めるにも好都合である。信長は即座にオルガンティーノのねがいを許す。

 こうして「安土において最も美しく気品のある邸のひとつ」(フロイス)が完成した。三階建てで、一階は客を宿泊させる座敷で、茶室がついている。二階は広間と寝室、三階は神学校(セミナリヨ)にあてられる。街中でも特に目立つ高い建物だった。神学校を設けたのも、茶室を備えたのもヴァリニャーノの指示。茶室を設けたのは、ヴァリニャーノが日本人の社交手段として茶会が重要なのを悟ったからである。

 信長は工事の途中を見分し、地所が狭いといって、周辺の家屋を取り除かせるほど気を入れていた。修道院が完成すると、よく出来たとほめて、オルガンティーノに200クルザード(イエズス会士一人の年間生計費がおよそ20クルザード)を贈った。信長は相変わらずバテレンたちに好意的で、彼らの説くところに耳を傾けては「仏僧たちの言うことは皆偽りで、来世に関してはバテレンたちの言うことだけが真実と思われる」などと御愛想を言ったとされる。

 しかし司祭たちは、信長が内心ではデウスと霊魂の存在に疑問を抱いているのを知っていた。彼は仏僧と同じく宣教師も、心では信じていないことを、世道人心を導くために、さも信じたふりをして説いているのではないかと疑っていたのだ。そして天下統一事業の進展とともに信長は本性をあらわす。フロイスは記す。

「自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った。」