柿谷論文を検証する

伊藤 投稿日:2024/06/09 11:29

伊藤睦月(2145)です。歴史好きの副島ファンとして、柿谷さんの投稿を楽しんでますが、【3128】について少しコメントします。

1)旧唐書が出たときの中国の状況

旧唐書が成立した西暦945年 わが国では朱雀天皇の在位最後の年、権力者は藤原忠平という人で、平将門が仕えていました。藤原道長【966~1027)はまだ生まれていませんので、タイトルに道長を上げるのは適当ではない。

民間貿易が盛んになりうんぬん、とありますが、それを象徴するような出来事の史料を示してください。藤原純友が死んだのは941年、当時海賊と貿易商はニアイクオールだし、945年には呉越人、肥前に漂着との記事があります。「日本史年表(第5版)岩波書店」そもそも894年に遣唐使が廃止されてからは、日中貿易は、原則民間貿易、(つまりはほぼ密貿易)です。それが、盛んになったことを示す史料を柿谷さんはお持ちでしょうから、まずお示しください。そんなことよりも、945年で押さえておくべき事項があります。

2)消滅した王朝が編纂した歴史書がそんなに衝撃的か。(中国正史の意味)

旧唐書を編纂したのは後晋王朝、創始者は石敬トウ、北方民族の契丹(遼)の後押しで、建国しますが要するに遼の傀儡王朝です。そのため946年に遼からあっさり滅ぼされてしまします。旧唐書成立のわずか1年後に消滅しています。

またもう一つ大事な事項、石敬トウは、燕雲16州を遼に割譲します。これは大事件で、後継の北宋王朝を終始悩ませ、これが北宋王朝の滅亡の一因になります。(ここまでは高校歴史教科書レベルです)

中国の王朝交代は血筋でおこなわれるのではない。易姓革命、天命を受けた王朝が天命を失った王朝から王権を引き継ぎます。それを証明するのが、歴史書です。だから、歴史書は門外不出。皇帝とその関係者しか閲覧(見ること)できません。また歴史書を編纂するための史料を記録、収集、保管する学者官僚(史官)はそれこそ命がけで史料を守り、後継王朝に引き継ぎます。簡単に改ざんもしない。一族あげて命がけで守るのです。後継王朝はそれを引き継いで前王朝の歴史書を編纂し、正統王朝であることを証明しようとするのです。それは現在も同様で、現在中華民国は、清王朝の歴史書を編纂し、中華人民共和国は、中華民国の歴史を編纂しなければなりません。単に武力で台湾を制圧すればすむものではない。これが中国の歴史伝統。だから「ほどなくもたらされただろう」といわれるなら、それの日本側の記録を示していただたい。それほどの衝撃なら、日本側の歴史書か貴族や坊さんの日記なんかに書かれていても不思議ではない。可能性としては、後晋の滅亡時の混乱で流出したことは考えられる。事実、唐滅亡の混乱で、多くの仏典や詩集など多くの書物がわが国にもたらされ、中国本国に存在しない書物を、柿谷論文にも出てくる坊さんたちが北宋皇帝に献上(返還)してご褒美をたくさんもらった、という記事がある。それなら、なぜ北宋皇帝は、旧唐書をくれなかったのだろう。そのあたりの史料や学者の論文なんかをお持ちに違いない。柿谷さんはぜお示しください。楽しみだ。

今回はここまでにするが、最後に一つ指摘。

「旧唐書」本文を参照すると、「東夷倭国」は、631年に唐太宗皇帝(貞観政要)との接触から648年の接触まで記載されており、白村江の戦い(663年)までの記述ではない。また「東夷日本」は則天武后との接触(703年)から文宗皇帝との接触(839年)まで記述されている。(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫)

したがって、663年の白村江の戦いまでを「倭国伝」で作り、というのは間違いもしくはほかの史料からの引用であろう。お示しいただきたい。

とりあえずここまでイントロ。次回から本番。楽しみですね。(以上、伊藤睦月筆)