柿谷論文を検証する(2)

伊藤 投稿日:2024/06/09 19:08

伊藤睦月(2145)です。続けます、

3)日本の坊さんが、新唐書編纂を嘆願した形跡はなく、嘆願あろうとなかろうと北宋王朝は新唐書を編纂しなければならなかった。

983年に日本僧がチョウネンが宋商人の船で、宋にわたり皇帝に拝謁、と年表にありますが、宋書日本国では、その徒5,6人と海に浮かびて至る、とあります。これは密航だと思われます。帰りは、宋商人テイジントクの船に従いて帰る、とありますので、これは皇帝公認の商人の船に乗ったものと思われます。

なぜ、チョウネンは皇帝に拝謁できたか、チョウネンは僧侶です。今ではこの感覚は分からないと思いますが、僧侶は身分の壁を乗り越え、誰にでも会えます。また、華厳宗の学僧であることから、中国総本山のネットワーク、手引きもあったと思われます。ここでは詳しく触れませんが、仏教の総本山は実はすべて中国にあったのではないか。国際的なネットワークがあったのではないか、という仮説を持っています。少なくとも江戸時代初めまでは。

それに中国皇帝の拝謁といえば、映画「ラストエンペラー」のイメージですが、北宋皇帝はもう少し距離が近かったかも。チョウエンが拝謁した皇帝太宗は、のちに「セン淵の盟」という中国皇帝のメンツにこだわらない平和条約(1004年)を遼と締結し、賛否あるが、さばけた皇帝であったそうなので、拝謁ができたのかもしれない。

また、北宋は後晋を唐の後継王朝と認めてません。認めているなら、旧唐書を正式の歴史書とし、新唐書ではなく、「後晋書(仮)」を編纂しているはずです。北宋こそが唐の正当な後継であることを証明するため、唐の歴史書を編纂する必要がどうしてもあったのです。だから欧陽脩といった当代一流の学者に編纂させたのです。戦後、新唐書より、旧唐書が脚光浴びたのは、後晋時代には、唐滅亡から間がなく、当時の史料や証言者が生き残っていたりして、後世からみて参考になる記事が多い、すなわち史料的価値から見直されていただけです。ちなみに旧唐書を正史に入れたのは、700年後の清代の学者です。

 また、柿谷氏は「宋史の書き方は、銅器十余事の献上が主で、「職員令」「王年代記」など付録のような扱いです」と述べているが、全く逆です。銅器に詰められた金がどれくらいの量かわかりませんが、そんなはした金で動じるような中国皇帝ではありません。中国なめるな。理由は別にあります。またその理由こそ、柿谷氏が主張していた訪中目的を達成するものでした。そういう意味で、チョウネンは大手柄を立てたわけです。東大寺別当の地位くらいお安いものです。次回それを説明します。(以上 伊藤睦月筆)

 

 さて、チョウネンは中国語がしゃべれなかったので、皇帝とは筆談で会話したそうです。多分距離はお互いの顔も判別できないくらいの距離であったと思われます。

 柿谷氏はチョウネンを一学僧と矮小化していますが、チョウネンは6位の緑衣を身に着けていたそうですから、下級貴族とはいえ、立派な身分です。大河ドラマで紫式部の父親が5位の越前守になる前の身分です。チョウネンの父親は、5位の殿上人、国司クラスで、息子を宋に送るくらいですから、かなり裕福であったとみるべきです。一学僧には実家が身分高く裕福でないとなれないのです。ちなみにチョウネンは皇帝から紫衣を与えられます。紫衣は日本では3位です。それに見合う役職として東大寺別当になります。超エリートで富裕層です。余計な印象操作は有害無益です。