柿本人麿とは何者か、9

守谷 健二 投稿日:2025/03/21 11:33

倭国(筑紫王朝)は、「夜郎自大」と云う病に侵されていた

「白村江(663年八月)の戦い」で言い表されている倭国の朝鮮出兵に関し、私は長年大きな疑問を抱いてきた。相手は、唐・新羅連合軍である、倭国の指導者たちには勝利の確信があったのだろうか。

勝利の確信も無しに海外派兵に踏み切ったのだろうか。丸二年にも及び三万余の大軍の派兵であった。

「滅ぼされた百済王朝を援け再興を計るため」などと云うきれい事で出兵事で出兵を決めたのではない。

新羅討伐は十年来の喫緊の課題であった。650年唐の冊封体制に入ったこと(唐の属国になった)が原因である。

それまで朝鮮半島の南部二国(百済王朝と新羅王朝)は倭国の属国であった。

『隋書』倭国伝より引用

新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使往来す。

引用終わり

『日本書紀』孝徳紀(在位645~654)より引用

白雉二(651)年、この歳、新羅の貢調使(みつぎたてまつるつかい)知萬沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝廷、恣(ほしきまま)に俗移せることを憎みて、呵責(せ)めて追い返したまう。時に、巨勢大臣申す、「まさに今新羅を討たずば、後に必ず悔いあらむ。・・・

引用終わり

新羅が唐の冊封体制に入ったことは、倭王朝に対する重大な裏切りであり、宗主国倭王朝にとって赦すべからざる行為であった。

倭王朝は、すぐにでも新羅討伐軍を派遣したかったが、背後に控える日本国(大和王朝)が近年目に見えて国力を充実させていた。両国の関係はあま良好とは言えなかった。

倭王朝は、何としても大和王朝の協力を取り付ける必要があったのです。

それにしてもどうして倭王朝が、中国統一王朝の隋・唐と張り合って帝国を目指したのでしょう。

二世紀の終わり漢王朝が滅びてから589年の隋の中国統一まで、中国には強力な統一王朝は成立しなかった。分裂王朝の短命政権の時代が続いた。周辺国家に中国を侮る気分が生まれていたとしても不思議ではない。

また隋朝・唐朝は漢民族の国家ではない、周辺民族・女真族の王朝だ。隋朝は極短命に終わっている。唐朝も短命に終わるだろうと、倭王朝は考えたのではなかろうか。

倭王朝は、中国統一王朝の隋・唐と対等と考えていたようだ。

『隋書』倭国伝より

大業三(607)年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書に曰はく、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と。・・・

引用終わり

    (続く)