柿本人麿とは何者か、8
『日本書紀』斉明紀(在位655~661)に登場する日本国(大和王朝)と倭国(筑紫王朝)
『日本書紀』斉明紀より引用
壱岐連博徳の書に曰く、斉明(659)五年七月三日、難波の三津浦より船出する。・・・閏十月三十日唐の天子に謁見を許される。天子相見て問いたまう「日本国の天皇、平安にますや否や」とのたまう。・・・
十一月一日、朝廷に冬至の会あり。参内している諸藩の使者の中で倭の使者が最も勝れて見えた。・・・
十二月三日、韓智興(倭国の使者)の従者・西漢大麻呂が我が客(日本国の使者)を唐朝に讒言して罪に落そうとした。(日本国の使節と倭国の使節の間で喧嘩が勃発したのである)両使節は喧嘩両成敗で刑を受けたが、壱岐連博徳の尽力によって許された。
事件の後、唐朝が言うには「唐は、来年海東(朝鮮半島)戦略を変える。(今まで陸路から高句麗討伐を優先していたが、海路から百済討滅を優先することにした。事実翌年(660)の八月、百済王朝は滅ぼされている)
それ故、使者たちが帰国する事は禁じられた。・・・
引用終わり
唐の都に、日本国の使節と倭国の使節が同時に滞在していたと云うのです。
日本の学者たちは、日本国と倭国は同じと云うのです。キチンと読んでいるのでしょうか、正常な読解力があるのでしょうか。
この壱岐連博徳の書で分かるのは、倭国の使者が、日本国の使者に敵意を持っていたことです。
と言う事は、日本国の使節が出発した斉明五年七月の時点では、日本国と倭国の間には同盟が成立していなかったと言う事です日本国は倭国の働きかけ(一緒に百済を討とう)に応じなかったのです。倭国は、唐朝も隋朝と同様短命に終わるなどと調子のよい事を言っていたのでしょう。
日本国は自分の目で確かめるために遣唐使を送ったに違いありません。
この遣唐使が早急に帰ってこなかったために日本国(大和王朝)に迷いが生じたのでしょう。
続く