柿本人麿とは何者か、6

守谷 健二 投稿日:2025/02/26 11:49

大海人皇子(天武天皇)を倭国の人物と考える根拠(その2)

『日本書記』

 天智三(664)年春三月の記事より

天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等のことを宣りたまふ。

(注)その内容は、冠位十二階を増設し、各氏上に大刀・小刀・盾や弓矢などを賜り、それぞれの封戸を定め与えた記事である。

 

この天智三(664)年二月は、倭国軍が白村江で唐・新羅連合軍相手に大敗北を喫してまだ半年後である。

 白村江の戦いは『旧唐書』の劉仁軌伝に次のように書かれている。

「仁軌、倭兵と白江の口に遇う、戦うこと四度、皆勝利した。倭船を焼くこと四百艘、炎煙は天に漲り、海水は真っ赤に染まった。・・・」

 倭国の百済救援の戦いは、壊滅的大敗北に終わったのです、倭王朝は、この戦いに二年に亘り三万もの大軍を朝鮮半島に派兵していたのです。それが完璧な失敗に終わった。王朝が被った打撃がどれほどのものであったか、想像もつかない。

そんな中での「冠位十二階の増設、各氏に対する報奨の贈与である。この記事が何を意味しているのか容易に理解できると云うものだろう。

当然国民は怒り狂っていたはずだ。肉親の多くが海外に帰らぬ身になっていた。王朝は何とか国民をなだめる必要に迫られていた。

この戦争で得たものは何もなかった。王朝の官位を増設して与えるしか手がなかった。これがこの記事の意味する所である。

しかしこんなことで国民の怒りが収まっただろうか、何の実体のない報奨である、王朝に権威信頼があれば収まりもついただろう。しかしその権威は地に堕ちていた。倭王朝は存続の瀬戸際に立たされていた。

この記事は、天皇(倭国王)に代わって大皇弟(大海人皇子、後の天武天皇)が宣言した、と書かれている。天武天皇は、大皇弟として『日本書紀』に登場する。これが天武の『日本書紀』に於ける初出記事である。

大和王朝(日本国)の斉明天皇は、斉明七(661)年七月、筑紫の朝倉宮で崩御された。朝鮮出兵は、その翌月の八月決行されている。

おかしなものだ、まるで斉明天皇の死を待っていたかのように断行しているのだ。

大和王朝の皇太子である中大兄皇子は、斉明天皇の喪(亡骸)を護り、大和に帰還している。

 

『日本書紀』より

冬十月、天皇の喪、帰りて海に就く、ここに皇太子(天智)、ある所に泊まり、天皇を偲い

 君が目を 恋しきからに 泊(は)て居て かくや恋ひむも 君が目を欲り

二十三日、天皇の喪還りて難波に泊まれり。

 

中大兄皇子(天智)は、早々と大和に帰ってきていた。中大兄はすぐには即位せず、皇太子のまま政治を見た称制時代と呼ばれ、天智が即位したのは称制七(668)年の正月である。

冠位十二階を増設した天智三(664)年には、大和王朝には天皇不在である。

『日本書紀』の斉明紀と天智紀の前半は、倭国と大和王朝(日本国)の合成記事で創られている。斉明紀には倭国と日本が混在している。

   (続く)

 

 

 

 

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