柿本人麿とは何者か、4・天武天皇(大海人皇子)が倭国(筑紫王朝)の人物と考える根拠

守谷 健二 投稿日:2025/02/07 13:00

お久しぶりです、守谷健二です。昨年重たい掲示板に書いた、柿本人麿とは何者か、3の続編です。副島先生に重たい掲示板に書くのを禁止されたのでこちらに書きます。

斉明七(661)年正月六日、斉明天皇は筑紫行幸の海路に就きます。教科書が「天皇自らが新羅討伐の指揮を執るため」の行幸と書く出来事です。

この行幸に、どうした訳(わけ)か大田皇女を帯同している。海路に就いての二日目(正月八日)、兵庫県から岡山県に入った海域で、大田皇女は船内で女の子(大来皇女)を出産しました。

通説に従えば、斉明天皇は戦争をするために筑紫に出向いたのです。そんな旅に、どうして身重の、それも臨月に入っていた大田皇女を帯同する必要があったのでしょう。

大田皇女は、中大兄皇子(天智天皇)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁いでいました。

斉明天皇の一行は、その海域から伊予国(愛媛県)の石湯(今の道後温泉)に直行し、二カ月半も逗留している。筑紫に到着したのは三月二十五日であったと『日本書紀』は記す。

私には、大田皇女の産後を養ったとしか考えられないのだ。

朝鮮半島戦況は逼迫していた。六世紀・七世紀前半の朝鮮半島は三国鼎立時代と呼ばれている。北に高句麗、南西に百済、南東の新羅王朝が鼎立していた。三国の中で北の高句麗が強勢で中国大陸東北部に深く勢力を伸ばしていた。

六世紀末に隋王朝が中国を統一するや、長い国境を接する高句麗との間に一触即発の緊張関係が生じていた。隋朝が短命に終わったのは高句麗討伐の失敗によると言われている。

隋朝と唐朝の交代は、王朝内革命のようなもので唐朝は隋の政策をそのまま受け継いだ。高句麗敵視も受け継いでいた。

半島南部では、中国に最も遠い南東に位置する新羅が親唐朝の立場を取り、南西の百済は高句麗と手を結び新羅を攻めていた。

百済王朝は倭国(筑紫王朝)にも王子を人質に入れ友好を強めていた。

唐朝と新羅対高句麗・百済・倭国(筑紫王朝)の対決構造が出来ていた。

北の高句麗と西の百済に攻め立てられ窮地にあった新羅は唐朝に早急の救援を求めたのである。

陸路高句麗を攻めていた中国統一王朝の唐朝ではあったが、高句麗の頑強さに手を焼いていた。そこで唐朝は戦略を変えることにした。大水軍を建造し、新羅と協力し高句麗の後方に控える百済を一気に壊滅してしまえと。

660年八月、百済王朝はあっけなく滅ぼされたのである。斉明天皇が筑紫行幸に出発する五カ月前だ。斉明天皇は、百済王朝滅亡を知った上で筑紫行幸を決行したのだろうか、臨月の皇女を帯同する理由が何処にあると云うのか。

斉明天皇は、百済王朝滅亡の情報など全く知らなかった、と私は考える。倭国が情報を遮断していたと。斉明天皇の筑紫行幸は、大田皇女を無事筑紫に送り届けるのが目的であったと。

新羅討伐軍の派兵は、倭国(筑紫王朝)の喫緊の課題であった。唐朝の援助を受け新羅は国勢を回復しつつあった。新羅討伐軍を派兵する為には、近畿大和王朝の協力を取り付けることが不可欠であった。その為に大和王朝に派遣された切り札が大海人皇子(天武天皇)だったのだろう。

大海人皇子は、大和王朝を説得するのに成功した、その結実が大田皇女との結婚、懐妊であった。

新羅討伐は、唐朝を敵にすることである。倭国内には、新羅討伐軍の派兵に反対の者もいたはずである。それらの者を説得する為にも大和王朝の協力を得た事を披露する事は絶対に必要であった。

大田皇女を無事筑紫に送り届けることは、とても大事なことであったのだ。