東川王の東遷(神武東遷)について(【409】への返信:その6)

会員番号2054 投稿日:2024/12/09 06:12

2054です。今回は、東川王による東遷について考察したいと思います。この点について、伊藤氏による疑問が提示されました。伊藤氏によれば、もしそのような東遷の史実があるのであれば、その事情が中国正史に記載されているはずではないか?とのこと。

(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。(抜粋終わり)

2054です。伊藤氏が「自説のように紹介している」と言及している説が小林説になります。小林説では、高句麗の東川王は九州にある邪馬台国(卑弥呼)を滅ぼし、台与を押し立てて近畿地方に向けて東遷したとします。神武東遷には何人かの史実が投影されていますが、東川王による東遷もその1つで、東川王は初代天皇である神武天皇となります。

そして、晋書に東川王による東遷が記載されていない理由は、晉にとって「都合が悪い」からです。その背景には、晉と敵対関係にある高句麗勢力(東川王系)が東アジアで勃興しており、倭国における東川王系の伸長を認めるわけにはいかない事情が控えています。
(引用はじめ 『興亡古代史』p97 小林恵子 文芸春秋)
この後(※266年の送使後)、晋は晋末の413年まで列島と交渉していない。『晋書』には倭人の条はあっても倭国の条はないのである。結局、晋は倭国の存在を認めなかったようだ。それは高句麗にもいえ、『晋書』には高句麗条そのものがない。その理由は244年に毌丘倹が高句麗を攻めて、東川王が逃亡した時、高句麗は消滅したというのが表向きの理由だろう。
しかし実は逆だったのである。250年前半に毌丘倹(かんきゅうけん)が幽州を去ると、再び高句麗が勃興していたのだ。東川王が高句麗を去った後、東川王の子の中川(ちゅうせん)王が高句麗に残っており、259年12月には魏勢と鴨緑江の支流で戦って圧勝し、再び高句麗は勢力を盛り返していたのである。この時点で半島中、南部は、ほとんど神武勢力下(※東川王勢力下)にあったから、列島を含めた極東地域は、東川王の子供か、その配下の者の国になっていたのである。
晋は晋に反抗した東川王の系統が極東で勢力を伸ばすことを認知するわけにいかなかった。だからこそ晋はその後、長期にわたって高句麗や半島中・南部、及び列島と国交を断絶したのである。
(引用ここまで)

2054です。当時の東アジア情勢に鑑みれば、晉が高句麗や倭国を「国家としてはなかったことにする」のもあり得る話です。高句麗は滅亡していることにしていますが実際には国力を増大させています。その高句麗系の東川王が「倭国で絶賛拡大中」とは認められません。そのような事実を記載するなど「もってのほか」です。
伊藤氏は【513】において「東倭はなぜ1回しか登場しないのか」と疑念を呈されていましたが、東川王と連合する東倭は東川王東遷の後盾になっていたことは想像に難くありません。しかし、高句麗は滅んだ、倭国?知りませんよ、そんな国というのが晋側の「大本営」のスタンスです。東倭について言及がないのはそれが理由と考えられます。

倭との交流はあくまで倭人だけということで「高句麗条」「倭国条」をつくらず「倭人」だけ東夷倭人編に記した。武帝紀にも「倭人が来た」としか記しません。そもそも国として認知・承認していません。そして、晉末期の413年まで国交を断絶しました。

東川王が神武天皇になって倭に乗り込むなんて夢物語(トンデモ)じゃないの?と見る向きもあると思います。しかし当時の東アジア情勢を見れば十分起こりうるシナリオです。
前回の投稿でも言及しましたが、朝鮮半島では土着勢力を巻き込んだ争乱が起こり、帯方太守や楽浪太守が殺害され、辰韓王も報復されています。隣接する日本列島がその余波を受けるのは自明であり、邪馬台国がいつどうなっても全くおかしくない状況です(だから帯方太守の王頎は邪馬台国の難升米に檄を飛ばしています)。
実際、毌丘倹の半島支配が確立すると、東川王は活路を求めて北九州に上陸。邪馬台国と戦い、卑弥呼を殺し倭王を僭称したと考えられます。
(引用はじめ)
東川王は246年に長寿山の戦いに敗れると、半島の西海岸を南に下り北九州に上陸した。そして247年に王頎の使者が来る前に卑弥呼を拘束して死に至らしめた。突然現われ、卑弥呼を殺し、北九州の覇を唱える東川王を奴国以外の北九州の卑弥呼側の国々が簡単に承認するはずはない。そこで東川王は卑弥呼の姪の台与を卑弥呼の代わりに祭祀権を授けて実権を握ることにしたようだ。しかし北九州勢力は、東川王は魏に敗れた高句麗からの亡命者だから、簡単に同盟すれば魏の怒りを買うことを恐れた。その上、精神的政治的支柱の卑弥呼を殺した事実は許せなかったらしい。北九州に定着することは困難とみた東川王は、卑弥呼の姪・台与を大物主のように疎外せず、祭祀者として取り込んで、はるかな祖先の休氏が辿った道、近畿地方に安住の地を求めて東遷する。台与を取り込んだのは北九州 も列島、つまり倭国の一地方にすぎなくするためだった。はたして、これ以後、北九州が倭国を代表することはなかった。東川王は『記紀』においては北九州から東遷した神武天皇といわれることになったのである。『記紀』では東川王の父山上王は高句麗で没したので、そのまま記録するわけにはいかない。 そこで神代最後の神ウガヤフキアエズとして名を残し、列島で没した東川王は人代の初代神武として名を留めたのである。東川王の名は東遷した王という意味を内在させている(小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p108~109)

2054です。東川王による「神武東遷」は、実際には順風満帆ではなく、毌丘倹の影響力が強いうちは、できなかったようです。本格化するのは、毌丘倹の没落した255年以降になりますが、その間に東川王も死去しています。東遷を完成させたのは、息子の神渟名川耳(かみぬなかわみみ)で、264年から265年にかけて近畿を平定。266年に即位します(これが綏靖天皇で、台与は皇后)。そして晉に承認を求めたが結果的には空振りで、国交は断絶したというのが歴史の流れと考えられます。

以上までで、ようやく【409】への回答が終わりました。伊藤氏にはいろいろ質問を提示していただき、また、長々とした説明をお読みいただき感謝いたします。

伊藤氏は2000年にわたる通史を作成されるとのこと、エネルギッシュさを尊敬しています。博学な伊藤氏にいろいろ教えていただきたいと思います。