東倭について(【409】への返信:その1)
2054です。伊藤氏の投稿(【409】「晋書」について)での質問・疑義点について回答していきたいと思います。今回は晋書にみえる「東倭」についてです。
東倭は邪馬台国が魏に使いを送った、まさに同時期に、日本列島から魏に使いを送っている国で、邪馬台国とは別の国です。邪馬台国は中学高校の教科書にも記載されていますが、東倭はまったく無視されています。
魏志倭人伝と晋書を合わせて読めば、西暦240年当時において、日本国内に「邪馬台国」のほかに「東倭」という有力な勢力があり、いずれも中国王朝から倭王の認定を受けていることが読み取れます。そしてその事実は、歴史学会で無視されています。中国正史に記載されているのに、です。
(伊藤氏の疑問提示)
「晋書にみえる東倭の国」は、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。(中略)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。
(ここまで)
2054です。中国正史(晋書)に東倭が記載されているのは事実です。「晋書・宣帝紀」を提示します。和訳されているサイトを引用します。※原典の画像もあるので貼ります。
(引用はじめ)
正始元年(240年)春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。引用元:晋書 高祖宣帝懿紀 訳出担当 田中 愛子/辰田 淳一
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
(引用終わり)
2054です。正始元年は240年で、「魏志倭人伝」によると、帯方郡の太守の弓遵が使者を倭に派遣して詔書と宝物を渡している。倭王は感謝の返礼をしているとあるので、「晋書」と「魏志倭人伝」を合わせ読めば、この「倭王」は「東倭の王」であることになります。もし晋書が単なる誤りというのなら、後世の知識人は誤りを正すはず。しかし「冊府元亀」では「晋書」の記載をふまえています(補強証拠となります)。
したがって、「238年末までに邪馬台国は明帝より金印を仮綬された」「240年正月に東倭は帯方郡太守(弓遵)から詔書で倭王を仮綬された」ということになります。
中国正史に誤りがないとすれば、このような結論になります。しかし、歴史学会のスタンスは異なり、何かの間違いだろうと無視するのだそうです。
ここで東倭から、晋書に話題を変え、分けて投稿します(続く)。