東倭にかんする、ちょっと気になること。
伊藤睦月です。東倭の存在については、2054さんの説明で納得なのですが、気になっていることがひとつ。なぜ、帯方郡の長官が仮綬したのか。すこし引っかかっていましたが、風呂に入ったら急に思いついたので、忘れないうちに書き留めます。
それは、東倭の朝貢時には、宣帝=司馬懿は、まだ皇帝ではなかったから。
史実として、司馬懿は皇帝にならず、孫の司馬炎の代になって西晋の皇帝になりました。
この卑弥呼や東倭の朝貢の約10年後、明帝の死後に、曹一族による、司馬懿排除の動きをしたのですが、逆襲され、曹一族の主だった者は捕縛、処刑され、それ以降、司馬懿とその一族が、実権をにぎり、魏皇帝は傀儡となってしまいました。
晋書宣帝本紀は、後世「宣帝」の名を追贈された司馬懿の功績を称えるために書かれたものですが、当時は、東夷の朝貢を受けることはできても、倭国王の官位を与えるのは、司馬懿の越権行為、下手すれば明帝から処罰されても、文句は言えません。
だから、魏都では、倭国王の詔書は与えられず、自分の地盤である、帯方郡の長官から渡すことになったのだと思われます。厳密にいえば、東倭に与えた詔書は、正式のものではない、ニセモノです。東倭の使者はそんなこととは知らず、喜んで受け取ったでしょう。だから、邪馬台国女王の朝貢とは違って、当時、東倭の来訪は、そんなに大々的に喧伝できなかったのでしょう。むしろ内密にされた可能性もあります。正史における、邪馬台国の記事と東倭の記事の扱いの差がでたのは、以上のような事情があったのではないかと、推測します。勝てば官軍なので・・・
以上、伊藤睦月筆