日本古代史解明の補助線(8):傍証としての「日本書紀」(5)雄略大王について

伊藤 投稿日:2025/01/09 14:13

伊藤睦月です。続けます。

(1)雄略大王=ワカタケルは、小説家の関心を呼ぶような題材らしく、池澤直樹氏(芥川賞作家)が日経新聞に連載した「ワカタケル」が話題を呼んだことがある。

(2)雄略大王の業績は、神武東征以来の有力豪族の多くを排除して、「ヤマトのアマ氏」の優位性を確立したことだ。

(2)ー2 雄略大王は、葛城氏、吉備氏、平群氏と いう武内宿禰由来の豪族たちの宗家を、謀略と戦闘で次々と排除した。戦闘は圧勝だ。雄略の晩年には、彼に面と向かって逆らう豪族は誰もいなくなった。

(2)ー3 雄略の覇権に寄与したのが、蘇我氏、大伴氏、だ。物部氏も大勢力だが、中立を保った。

(2)ー4 雄略大王の「軍政」担当が蘇我氏だ。蘇我氏は、倭国王武と好太王の激闘のあおりを受けて、列島に渡来(避難)してきた、難民たちを組織化した。(帰化人と呼ばれた)

(2)ー5 蘇我氏は、計数に明るい帰化人の部族(秦氏、西文氏など)を、傘下に入れ、軍事や騎乗が得意な部族を、大伴氏の傘下に入れて騎馬隊とした。(戦国時代の常備軍、馬回り衆に近い機能を持った)騎馬隊は当時の最強兵器である。兵器の優位性が勝敗を左右するのは古今東西同じである。

(2)ー6 蘇我氏は、応神大王のころから、大王家の税(米)と財産(宝物)の管理、出納をしていたというから(『古語拾遺』)、明らかに華僑由来だ。このころはまだ、政治の表には出てきていない。出てくるのは継体朝以降だ。馬具職人(後に仏師)の鞍作一族とも同族であろう。

(2)ー7 大伴氏は、東征の時から、神武につき従っていたから、神武の用心棒、親衛隊長のような関係だったと思われる。雄略の最も信頼厚き武闘派一族。「軍令」を担当し、蘇我氏が編成した騎馬隊を率いて、戦いの先頭に立った。後年、大伴金村が、継体大王擁立に大きく貢献する。それ以降はぱっとしない。

(2)ー8 物部氏は、葛城、平群滅亡後の最大勢力。ヤマトへの先行華僑、ニギハヤの後裔で、大王家とはほぼ同格。大王家が、名門倭国のアマ氏と同族ということで、かろうじて、大王家が優位にたった。物部氏は、雄略存命中はおとなしくしていたようだ。また、物部は「モノノフ」と言われるように、政治よりも軍事が得意だったらしく、欽明大王時代に政治力で上回る蘇我氏に後れを取ることとなる。

(3)雄略大王が独裁権を握った後は、この種の独裁者によくあることだが、一種の自家中毒を起こしたらしい。北九州の倭国や朝鮮半島を攻略するには、まだ力不足だったのだろう。やつあたりみたいに、近親者を殺しまわり、血縁がほとんどいなくなった頃に急死した。危険を感じた身内もしくは、旧来の豪族たちの合意で、殺されたのであろう。織田信長の最期とイメージが重なる。(倭国や外国勢力の関与も疑える)

(4)雄略の死後、しばらく小康状態になり、従来の豪族(華僑と原住民の王)たちの合議で、政治が行われたのであろう。こういう体制では、対外戦争はできない。目立った事跡も書記にはない。播磨王朝もそれだけ取り出して論じる意味がわからない。

(5)そのうち、武烈大王の死により。応神・仁徳大王の直系が絶えたので、同じ応神の血統である、越前の豪族、継体が大王に招かれた。応神の直系の変更が起こった。(後年の天武→天智という、舒明直系の変更とイメージが重なる)

小休止、伊藤睦月筆