日本古代史解明の補助線(6)::傍証としての「日本書紀」(3)

伊藤 投稿日:2025/01/09 10:04

伊藤睦月です。前回の続き。

2 奈良盆地の「人口爆発」(続)

2-(2)巨大前方後円墳は、古代の治水・農業灌漑施設だ。

 ①2019年に世界遺産登録された、大仙陵古墳(仁徳陵)をはじめとする、百舌鳥・古市古墳群は、高校教科書などでは、「強力な王権の存在を伺わせる王墓」といった説明が付されることが多い。しかし、本来目的は、河内平野の治水と農業灌漑用の施設だ。後にこのプロジェクトを指揮した、大王たちの業績を記念するため、その施設跡に王棺が収められた。土木工学の専門家で、国土交通省技官だった、長野正孝氏は、専門家なら一目でわかるという。(『古代史のテクノロジー』2023年PHP新書)

②また、ゼネコンの大林組の調査で1991年に、百舌鳥・古市古墳群と、奈良盆地をつなぐ運河(古市大溝、丹比大溝)が発見され、さらにいくつかの運河跡の存在をつきとめている。これも考古学の新しい成果(歴史サイエンス)だが、学会主流で積極的に取り上げられた形跡はない。そのうちなし崩し的に認知されるだろう。私の推論を進める。

③このプロジェクトに従事したのは、中国から渡来した土木技術者集団(帰化人)で、彼らは黄河や長江の治水技術を山門国に、導入した。北九州にはそういった大規模施設の遺構がみられないので、渡来しなかったか通過しただけだろう。ちょうど、高句麗の好太王と倭の五王が、朝鮮半島南部で死闘を繰り返していた時期(謎の4世紀)にあたる。長野正孝氏は、そういった事例として、ほかに、大和川、龍田川、富雄川、佐保川、蘇我川などを結ぶ、「奈良湖」や、京都巨椋池、岡山穴の海と津寺遺跡などを挙げている。彼らは、難民として渡来してきて、華僑系の有力豪族、蘇我氏によって組織化されたのであろう。蘇我氏が急速に存在感を増してきたのは、河内王朝以降である。技術者集団が、どの氏族に当たるかは、手元に資料がないので後日の宿題にさせていただきます。

④仁徳大王は、奈良盆地にあふれていた東国からの流民たちを工事に使役し、完成後は彼らに新田を与えた。流民たちは仁徳に大変感謝し、崇めたに違いない。

⑤西からの難民(渡来人)たちもいただろうが、東からの流民の方が数が多くて、彼らに与える土地がなかったのかもしれない。後に彼らの多くは、信州や関東に移され、そこに土着し、武装した彼らが、いわゆる関東武士団を形成することになる。そのときに、先の農業技術者たちと、騎乗のスキルを身に着けた者たちが、難民たちを率いて行ったものと考えられる。

⑥私、伊藤は、江上波夫が、この謎の4世紀に発生したとする、いわゆる、「騎馬民族王朝征服説」は採用しない。理由は、江上による「騎馬民族」の定義が厳密すぎるから。江上は、騎乗のスキルを身に着けた遊牧民だけが「騎馬民族」であるし、漢民族などの農耕民由来を、騎馬民族とはかたくなに認めなかった。但し日本人は本来農耕民であるが、ある時期「騎馬民族的」になったという。(武士の登場、大日本帝国など)

⑦古墳時代後期の出土品は、江上が指摘するように、馬具や馬具を身に着けた戦士の埴輪が数多くあるが、いずれも、農耕民由来の「鐙(あぶみ)」などの馬具を使用しており、江上のいう「騎馬民族」の定義に当てはまらない。遊牧民が鐙を使用しだすのは、もっと後、12世紀モンゴル帝国のころからだとされている。

⑧また、その後に日本列島で使用された馬は、すべて去勢されていない、牡馬(おすうま)であり、これは、農耕民由来の特徴である(欧州でも同じ。去勢馬を採用したのは、11世紀の十字軍遠征で、イスラム騎馬隊を真似た、とされる。)。去勢馬を使用しだしたのは、明治以降である。軍馬としては、日本陸軍騎馬隊の創設者、秋山好古(坂の上の雲の秋山真之のお兄ちゃん)がフランス騎馬隊を真似て、導入したとされている。但し、競走馬などの特殊用途では、去勢されていない「牡馬」が採用されているようだ。

⑨一方で、遊牧民由来は、当時から牝馬(めすうま)か、去勢馬を使用していた。宦官の風習なども、これが起源とされている。

 伊藤睦月です。これらの理由から、謎の4世紀に渡来した、「騎馬民族」なるものは、農耕民由来である、ゆえに、江上が定義するそれとは別(江上は生涯この定義にこだわった)であるとされ、日本考古学会は正式に江上説を否定した。学会内では解決済み、とされた。江上の自滅だ、と私、伊藤は考えます。

小休止、以上。伊藤睦月筆