日本古代史解明の補助線(3):邪馬台国は東遷していない(2)
伊藤睦月です。邪馬台国東遷説をどう考えるかが、解明のカギとなります。
1 「謎の4世紀」に人口が北九州より畿内の方が多くなっている。
1-(1)まず、考古学の知見から。3世紀の邪馬台国の時代(弥生時代後期)では、鏡の出土が北九州が圧倒的に多いが、5世紀(古墳時代)以降は北九州からほとんど出土せず、畿内の出土が圧倒的に多くなっている。(安本美典『データーサイエンスが解く邪馬台国』)
1-(2)当時の米の生産量から古代の人口推計をすると(米穀安定供給確保支援機構)
1-(2)ー①:縄文時代後期→弥生時代→古墳時代→江戸時代で推計する。
②九州:10,000→106,300→710,400→3,300,700
③近畿:4,400→109,400→1,217,300→4,941300
であるとされている。(金澤正由樹『古代史サイエンス2』2024年鳥影社)
1-(3)伊藤睦月です。東遷論者はこれらのデーターから、近畿の人口が増えたのは、なんらかの要因で、北九州から人の移動があったからだとする。(この観点からすれば、いわゆる騎馬民族王朝征服説も同種の論理構成だとわかるだろう)
1-(4)しかし、九州もそれなりに増えているのである。東遷論者に従えば、九州の人口が相当数減少していなければならない。皆既日食がそんなに恐れられたのなら、北九州がゴーストタウン化しても不思議ではない。この現象は、畿内の人口増加率が、九州のそれを上回ったとみるべきで、東遷論者は、邪馬台国九州説に引き寄せたいがために、こういったデータを無視している、と考えざるを得ない。
2 畿内の人口増は、東国(伊勢、美濃、尾張、越前)からの流入が原因
2-(1)最初の前方後円墳であるとされる、箸墓古墳(邪馬台国畿内論者の最後の砦)を含む、纒向遺跡を発掘調査した、関川尚功氏(元奈良県立橿原考古学研究所)の分析によると、
①出土品(土器)の大半が東海地域由来で、北九州・西日本由来がほとんどない。
②北九州由来の鉄器の出土もほとんどない。
③そのほか、大陸系遺物の出土も、北九州と比べて圧倒的に少ない。
などから、畿内(奈良盆地)は、北九州とは、ほぼ関係なく発展した、としている。(関川尚功『『考古学からみた邪馬台国大和説』2020年梓書院)
2-(2)伊藤睦月です。以上により、私伊藤は、畿内の人口増加は、北九州からの人口移動によるものでなく、むしろ、東国からの人口流入と、農業技術の進歩による、米生産高が、北九州を上回ったためと考える。(同旨関裕二氏)
2-(3)なお、関裕二氏は「歴史研究家」でなく「歴史作家」と自称しており、最新の学説や歴史データを巧みに取り入れて、自説をアップデートしていることに注意。
2-(4)伊藤睦月です。最新の考古学や歴史サイエンス(農学)の研究成果を踏まえると、邪馬台国東遷説は成り立ちそうにない。もはや、「邪馬台国九州説VS畿内説」の図式で、議論する段階は終わっている、と思う。
2-(5)以上を踏まえると、文献史学の解釈も変わってわってこざるを得ない。「考古学の問題は考古学で」だが、考古学の知見が文献史学の知見を変えることはありうる。(例えば、1980年代、古代出雲の発見)次回は東遷論に関して、「日本書紀」の記述を検討する。
以上、伊藤睦月筆