日本古代史解明の補助線(10) 天武直系から、天智直系へ

伊藤 投稿日:2025/01/09 22:48

伊藤睦月です。続きを少々。

4-(1)孝謙改め称徳が770年に死亡したことによって、吉野盟約の6人の皇子のうち、5人の直系が絶えた。

4-(2)残るは、天智直系の志貴(施貴皇子)の息子、白壁王(709-782)が残っていた。天武派の豪族たちは、聖武傍系の井上内親王を皇后に、二人の間にできた子、他戸親王を皇太子にすることを条件に即位させた。光仁天皇である。光仁は高齢だったので、政権交代は遠くない、と思われた。ぼけ老人のふりをしていた、という。政敵を油断させたのだ。

4-(3)即位から5年後、775年に、井上内親王、他戸皇太子を謀反の疑いで、幽閉し、食事、水を一切与えず、餓死させた。

4-(4)そして、天武系の血が1ミリも入っていない、渡来人系の妻、高野新笠との間の子、山部親王を皇太子にたてた。781年光仁の跡を継いで、天皇に即位し、桓武(737-806)と名乗った。これ以降、天武系の天皇は出ていない。志貴皇子の血統は絶えることなく継続し、現天皇家までつながっている。

5-(5)ここでクイズ、光仁、桓武で天智系が完全復活したが、そのときなぜ、大友皇子の名誉回復をしなかったのか。

5-(6)答え(私見)光仁の即位により、志貴皇子の血統が直系となったため、大友皇子の血統は傍系になり、皇位継承資格を失った(もしくは、名誉回復により、天智の血統間での天皇位争いが勃発するのを防止するため)

5-(7)大友皇子の名誉回復は、明治まで行われなかった(弘文天皇号を追贈)

5-(8)大友皇子の直系の曽孫が、淡海真人三船(おおみのまひとみふね722-785)である。懐風藻の編纂や漢風諡号(かんふうしごう)を定めたとされる。真人は皇族に与えられる姓(かばね)。格は高いが、役職が制限されていたらしく、三船は、いわゆる「臣籍降下」(女性皇族が皇籍を離脱する、「臣籍降嫁」とは別)して淡海姓をもらい、官位を望んだ。生活のためであろう。学問で身を立てようともしたらしい。天武系全盛の時代だったから、現実的な選択をしたと思う。本人の心中はわからない。

以上、伊藤睦月筆

5-(9)懐風藻の冒頭の漢詩が大友皇子の作で始まっているのは、先祖への追慕の意味がある。それ以上の政治的意味があるかどうかは不明。

5-(10)漢風諡号は、持統時代に定められた和風諡号と合わせて、歴代天皇の出自と業績のエッセンスがまとまっていると思うが、彼自身及び天智系の天皇たちの思惑も反映されているかもしれない。