日本古代史解明の補助線(7):傍証としての「日本書紀」(4)倭の五王と山門国の大王たち(河内王朝)は別人である。

伊藤 投稿日:2025/01/09 11:58

伊藤睦月です。前回の続き。

3 「倭国」と「大和国」との分かれ道(1)

3-(1)私、伊藤は、いわゆる「河内王朝」は、内政重視による国力充実の時期に当たり、いわゆる外に出ていくのは、継体朝以降だと考える。その理由は以下の通り。

①日本書紀には、この時期、「外征」の記事がない。当時、倭の五王は、朝鮮半島に積極的に進出し、高句麗と激しい戦闘を繰り広げていたことは、朝鮮側の史料「三国史記」「三国遺事」でも明らか。また、当時の中国南朝(宋)にまで、上記内容の上表文を提出して、柵封を受けているのだから、建前上、「海外向け」の書紀で取り上げないのはおかしい。この倭の五王たちは、大和国の大王たちとは、別系統、とみるべき。

②また、教科書等に良く掲載されている、倭の五王の系図と河内王朝の系図(宮内庁HP)が一致しない。見て見ぬふりをしているとしか思えない。

③倭の五王の最後、武は雄略大王だというのが、定説だが、金石文(刀剣等に刻み付けられた碑文など)にある「ワカタケル」=雄略大王であっても、ワカタケル=武とする根拠は、同時代というほかは、なにもない。

④「ワカタケル」という名は、関東と九州の遺跡の両方から出土されたことから、河内王朝の雄略だという推定は支持できる。(北九州の倭国の勢力が関東まで及んでいたとは思えないから)

⑤学会通説は、「倭国」(もしくは九州王朝)の存在を認めていないから、武=雄略としている立場を崩さない。しかしそれがために、河内王朝以後の王統のつながりをうまく説明できないでいる。倭国と山門国の二国併存説(同旨副島、古田)なら、「合理的な説明が可能。これについては後述する)

3-(2)大規模土木工事の記事は、仁徳大王の項に集中しているが、その後も大型前方後円墳の建設は続いているから、仁徳以後も、メンテナンス、新田開発工事はある程度継続されたと考える。それにしても、行政らしい事跡は仁徳以外に出てこないのは、ルーティンな作業だけで、目新しいことはなにもしていない、ということ。国力充実に専念していた、と考えるのが妥当だと考える。但し、雄略大王の時代になると少し、様相が変わってくる。

3-(3)履中、反正、允恭、安康、雄略、の記事は、いずれも、国内問題ばかりである。いわゆる不倫や近親相姦、略奪婚の話が多く、いわゆる身体障碍を思わせるような大王もいて、とても、「先祖代々甲冑を着て、朝鮮半島で戦いを繰り広げた」(武の上表文)とは、思えないような牧歌的な記述が続く。

3-(4)以前、引用した考古学者の関川尚功氏も、奈良県内の遺跡の多くを発掘調査してきた者の「実感」として、「大陸・(朝鮮)半島情勢とは無縁の近畿・東海地域」と結論付けている。(『考古学から見た邪馬台国大和説』)

3-(4)ほかの大王とは、一味違う、雄略大王

①雄略大王の代になると、単なる「略奪婚」にとどまらず、自分に逆らう豪族たちを、手段を択ばず、その女性ともども滅ぼしている。しかも、瞬殺、圧勝である。

②学会通説でも、雄略大王の代に当時の有力豪族を滅ぼして、一時的にせよ、独裁権を確保したとみる説がある。「古代の織田信長」と例える人もいる。

③古代人にとっても、雄略大王は「一味違う」大王と恐れられ、憧れもされたようで、万葉集の冒頭は、雄略大王の長歌から始まっている。また、雄略(ワカタケル)を主人公とした小説もある。

④しかし、なぜ、そうなのか、という考察はないようだ。次回、私見を述べる。

以上、伊藤睦月筆