日本古代史備忘録(4)結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない。(1)
伊藤睦月です。ただ今2024年11月11日(月)8:42です。
(1)いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか)は、畿内説VS北部九州説、九州説内での場所論争(九州各県に複数。最南端は奄美大島説(小林恵子))が繰り広げられており、未だ決着がついていない。
(2)議論の大筋としては、畿内説(纏向遺跡、箸墓古墳あたり。京大系の学者が多い)と北部九州説(福岡県朝倉市、筑後市、佐賀県吉野ケ里遺跡あたり。東大系の学者が多い)に絞られてきているようだ。(副島隆彦説、岡田英弘説、下條竜夫説、安本美典説は別に論ずる)
(3)従来の議論は、歴史研究の方法論としては、「文献学アプローチ」、すなわち、魏志倭人伝の漢文を読み解く(暗号解読のようにあれこれ「解釈」して邪馬台国の場所を特定(比定:ひてい、ともいう)する)方法が主流。そして、もうひとつの方法「考古学アプローチ」を補助的に使う、たとえば古墳とか、銅鏡の分布とか。いわゆる「金石文:きんせきぶん」の分析は、どちらになるのか、門外漢の私には、よくわからない。
(3)歴史は、文字情報で語られるものだから、文献学アプローチのほうが、文字情報以外の史料を分析する考古学アプローチより優先されるものらしい。(程度による。時代をさかのぼるほど、文字情報が少なくなるので、その分、考古学アプローチの重要度が高まる)
(4)というわけで、世の学者(白鳥庫吉、内藤湖南その他東大系、京大系大勢)や在野の歴史研究家(宮崎康平、古田武彦など)、歴史推理作家(松本清張、高木彬光、井沢元彦など)が論争に参入し、特に1960~80年代は、「古代史ブーム」と呼ばれるくらい、議論が盛り上がった。
(5)一方で、考古学者(那珂通世、森浩一など)たちの遺跡発掘、調査研究も盛んになり、考古学アプローチからの邪馬台国探しも盛んになったが、あくまで文献学の補充、みたいな扱いだったようだ。
(6)なお、考古学分野については、2000年に「旧石器捏造」事件が発覚して、学問界の大スキャンダルとして騒がれたが、その分地道な調査研究が続けられたようだ。(但し、畿内説をとる人々の中には、考古学の知見を、学問とは関係ない、政治的に利用する人たちもいることが指摘されている)
(7)ところが、1980年代には、すでに、日本の学者たちの「努力」を一挙にデリートしてしまうような、議論が、海外から襲来していた。
とりあえず、小休止。
以上、伊藤睦月筆