敗戦国の末路について
伊藤睦月です。665年、唐帝国、新羅王国、旧百済王国、との間で講和友好の盟約が締結されますが、その内容はともかく、史実としては、機能せず、結局百済王国は復活できませんでした。また、2054さんのいわれるとおりなら、同時に、唐帝国、新羅王国、倭(大和王朝)との間で、同様の盟約が締結されていないとおかしいですが、使者のやりとりはあったようですが、盟約の存在は、唐側、新羅側(新唐書、三国史記新羅本紀(羅紀))、日本側(日本書紀)からは確認できませんでしたので、別のファンタジーができそうです。
(引用はじめ)かくして、(盟約文を)鉄板に金字できざんだ、盟約の文をつくり、新羅の廟中に納めた。劉仁願が、唐に帰還すると、(旧百済皇太子)隆は、人民が手に手を取って逃散するのを畏れ、彼も都長安に帰った。(引用終わり)「倭人伝:講談社学術文庫」
伊藤睦月です。せっかく、講和の盟約が締結され、旧百済の民の安全は保障されているはずなのに、逃散、つまり大量の難民が発生し、隆も逃げ出して、旧百済地域は放棄されたも同然になったようです。旧百済民の多くは、新羅の進駐、略奪、報復を恐れたのでしょう。今現在でも世界中に起こっていることです。盟約は機能しなかったということです。
668年、唐帝国は高句麗を滅ぼしますが、新羅がそれを横取りし、旧百済をも手に入れ、朝鮮半島を統一してしまいます。(676年)
もちろん、唐帝国も放置せず、百済を回復しようとしますが、そのときも隆を利用して、失敗します。唐帝国は、「前漢武帝の版図の復活」(朝鮮半島全体の直轄地化)をねらっていますが、間接統治方式をとろうとしています。終戦直後の日本もこれです。ただ、その後の諸情勢により、米国の51番目の州にならなっただけです。(40年前までは、これを主張する有識者もいましたね)これも現代までよく見かけるパターンでです。
(引用開始)儀鳳年間(676~679年)、高宗は隆を「帯方郡王」(後漢時代に、平壌付近にあった、漢の出先機関)に昇進させ、領地へ戻らせた。このころ新羅は勢力が強かったので、隆はかつての故国に入ることができず、高句麗(平壌付近)に政庁を仮に置いたが、やがて没した。
則天武后は、隆の孫の敬に帯方郡主ののあとを継がせたが、その領地はすでに新羅と渤海(698年建国)の靺鞨(まっかつ:渤海の部族名)によって、分割されており、百済はかくして絶えたのである。(「倭人伝:講談社学術文庫)(以上、引用終わり)
伊藤睦月です。新羅はその後、唐と戦争したり、朝貢したり、また戦争したり、を繰り返して、936年、高麗に滅ぼされるまで、国を保ちます。
一方、わが国は、白村江の敗戦から、約40年後(なんでこんなに間が空いた?)、702年に粟田真人を遣唐使として派遣し、「日本」「天皇」を名乗って、後年には「日本書紀」を提出して、国交を回復しますが、朝貢しても冊封を受けず、日本国内向きには、「中国」と対等の関係を装います。このへんの話は、また深堀していきます。
次回こそ「晋書」の話に戻ります。結論を先取りすれば、小林=井沢は、対談本の注釈にでもよいから、原典の該当部分を明記すべきです。そうでないと我々素人と同じレベルだ、と言っておきます。
(以上、伊藤睦月筆)