愛と死を見つめて(4/4)

藤村 甲子園 投稿日:2011/10/30 01:16

(承前)

Ⅵ.『窮乏の農村』の限界と、その意義

本書の成り立ちは、おそらくこんなところだろうと思われる。

「おい、ゴンベエさん、聞いたか。今度、東京から組合の偉い先生がやって来て、オラが村のことをあれこれ調べなさるんだとよ。」

「そうかいね、留吉さん。だったらひとつ、その先生のところまで出掛けて行って、オラっこのグチでも聞いてもらうべえ。」

このゴンベエさん、グチとは言え、アカの他人に向かって言うべき言葉を持っている人である。こういう人は少数派である。
さらに、自分の意見を世の中に向けて発表したい/発表すべきだという問題意識も持っている。そういう人はさらに少数派である。
さらに、忙しい労働時間を割いて、わざわざ東京から来た珍客を訪ねてみようかという意志の持ち主でもある。そういう人は、さらにさらに少数派である。
これは昔も今もそうだし、また洋の東西も問わない。もちろん、農民に限った話ではない。

つまり『窮乏の農村』という本は、当時の日本の農村の、最良もしくは最も意識が尖鋭な部分の意見のみを代表している可能性がある。もの言わぬ農民大衆のホンネは、本書の持つ射程距離の、さらにその先にある可能性がある。

これはもちろん、猪俣津南雄の洞察力不足のせいではない。彼は彼にできる最善を尽くした。これは聞き書きという方法そのものが持っている、宿命的な欠陥なのだ。

そもそも、「もの言わぬ」相手のホンネを、どうやって聞き取れば良いというのか。
察すれば良いだろう、こちらが勝手に想像すれば良いだろうというのは、当の相手から見れば大変無礼な振る舞いであり、ハタから見ればただの思い上がり、または傲慢である。
「もの言わぬ」相手のホンネを、「おまえのホンネはこうだ」と決めつける権利を持っているのは、ただ裁判所と税務署と公正取引委員会あるのみである。

では、みのもんたの身の上相談は、あれは無礼ではないのか?傲慢ではないのか?

あれは傲慢ではない。みのもんたは「お譲さん、アンタねぇ、一体ナニ考えてんの!?」と、叱られたがっている相手を叱っているだけだ。無理矢理なのか、それとも相手と合意の上なのか、また、相手に無礼と取られはしないかは微妙なところだが、そこのところを紙一重の差ですり抜けてみせる、みのの練達の話術はさすがである。

閑話休題。『窮乏の農村』をもって、「昭和戦前期の日本の農村の全体像はこうだった」と捉えたら、おそらく誤るだろう。だが、「こういう一面も、あるにはあったに違いない」と捉える限りにおいては、政治的立場の如何を問わず、有益な歴史資料と言えるのではなかろうか。

これだけは言える。本書は、私の歴史意識の空白を埋めてくれた良書である。
昭和戦前期の日本の農村は、決して暗黒ではなかった。

もちろん、零細規模経営で、農産品市況が不安定で、地主からの収奪も激しかったため、楽な暮らしではなかったが、農民も、決してやられる一方の哀れな立場ではなかったのだ。いやむしろ、なかなかにシタタカなものではないかと思われた。
実際、旧ソ連では、都市労働者(月給取り)は共産党の言うことに唯々諾々と従うしかない立場に置かれていたが、農民たちは共産党のことを散々手古摺らせてきたのである。中共は今でもそうだ。

それでは最後に、昭和戦前期の日本の農村の「最も意識が尖鋭な部分」たちの「声ある声」をご紹介したい。

(引用、始め)

(藤村注;昭和恐慌では地主階級も痛手を負った。時流に乗り損ねたものが没落するのは、有産階級であっても変わらないからだ。中小地主はことにそうだ、という話に続けて、)

新潟県の米作地帯などで、「中小地主の没落は急角度だ」といわれるのは、そこの小作人が他県よりよほど強かったことにも関係する。近年猛烈な争議をして勝った王番田(おうばでん)の小作人たちは、この辺の地主は借金で首ったけでもうわれわれに抵抗する気力などはないと大層気焔(きえん)をあげていた。
この小作人たちの気焔は全く愉快なものだった。抵抗する気力がないなどと好い気になっているとひどい目に逢うぞ、と笑った者がある。すると彼らも負けてはいない。万事はこの胸にある、といった調子である。そんなら、今後の対地主政策はときくと、突嗟(とっさ)に、「まず生かさず殺さずという所かな」という応酬だ。(P168)

(引用、終わり)

(以 上)