愛と死を見つめて(3/4)

藤村 甲子園 投稿日:2011/10/30 01:18

(承前)

Ⅲ.『窮乏の農村』の見どころ

とにかくユーモラスなのである。著者は農村の悲惨さを訴えようとしているのだが、何だか笑ってしまうような話が多い。企まざるユーモアというべきか。
具体的に、二三引用する。

(引用、始め)

(藤村注;農家の娘さんたちは近隣の工場で働いて、親の家計を助けていたが、これも恐慌ですっかりダメになってしまった、という話の後で、)

この女工さんたちがお休みに着て歩く人絹物の派手な模様の一張羅(いっちょうら)がとかく地主たちの眼に止り、お前らのとこの娘にあんな着物を着せておいて年貢米をまけてくれもなかろうと言い立てれば、娘は娘で、こんな着物ぐらい着なければ嫁に貰ってくれ手もないと応酬するという話。―――
もっとも、こうした「女工哀史」の最新版を書きつつあるのは、信州や上州に限ったことではない。また養蚕農家に限ったことでもない。それはまず全国的なことだと言えるであろう。(P35)

(藤村注;当時の農民も、農業機械の導入には意欲的だった。零細農家にとって、高額な機械の購入はリスクが大きい事は明白なのに、なぜ誰もがそうしたがるのか。)

群馬県のある自作農の言ったことが代表的である。彼はこう言った、機械を使えば身体(からだ)が楽だし、仕事も早く切り上げられる、しかし経済的にはかえって余計苦しいし、仕事も粗末になりがちだ。
だが、身体が楽だ、そして明るいうちに切り上げられる、というそのことは、何といっても現代の農民には大きな魅力であるらしい。経済上のよしあしを詮議(せんぎ)しているいとまもないくらいこの魅力が大きく強いということこそ、あわただしい機械化普及の秘密の一部を語るかと思われる。(中 略)
石川県のある村で、私は、農民組合の『の』の字も知らぬ一群の農民たちがあげる火のような気焔(きえん)をきいた。熱して来ると彼らは、「身体にらくゥしている町の月給取り」を仇敵(かたき)のようにこきおろした。「あいつらァ、日曜だと吐(こ)いてェ、朝っぱらから炬燵(こたつ)べェへえってェ、蓄音機ィかけてェ・・・・・。」
それも一応無理はない。科学の進歩、産業技術の発展の現状をもってして、農民たちの身体を楽に出来ないはずはなかったのだ。(P50-51)

先頃、ある農業経済学者が群馬県へやってきて、大いに産業組合の利益を説いた。農民は産業組合によって資本家にも対抗してゆくことが出来る、第一に組合製糸がそれであるし、さらにまた各種の生産組合を作れば日用品の大部分も資本家から買わなくてすむようになる、というようなことを言って聞かせた。しかしそこに集まっていた若い者は笑って相手にならなかった。われわれにはあいにくと資本がない、腕と頭の力だけでは敵(かな)いっこない、先生も自分で二、三年小作でもやって御覧なさい、じきにわかります、と言ったので農業経済学者も一緒に笑ってしまった。そんな話もきいた。(P130)

(引用、終わり)

ここらへんのおおらかさが、猪俣津南雄の持ち味であるように思える。
表層的と言えば表層的だが、ものの見方がとても素直である。
少なくとも、「金持ちはキライだ」または「ブルジョア階級は人民大衆の不倶戴天の敵だ」といった類の「正しい階級意識」から出発している人ではないように思われた。

もちろん猪俣も、「世の中全部が社会主義になれば、何もかもがうまく行く筈だ」と考えてはいるようだ。実際、そういった意味のことを本書でも何度も繰り返している。こういった点においては猪俣もまた、在り来たりのアカの一人に過ぎないとは言える。

ただ、猪俣の人間観は、アカの理論家としてはちょっと変わっているように思える。
誰かを「諸悪の根源」、「悪の総元締め」または「戦争の親方」みたいなものに仕立て上げて、「***を打倒しさえすれば何もかもうまく行く」式の、単純きわまる善悪二元論に立っている人ではなさそうなのである。

(引用、始め)

(藤村注;当時の地主は、農民からの収奪強化のため、小作人から土地を取り上げることがよくあった。「ガタガタぬかすと、小作地を取り上げるぞ。他に耕作したがっている人間はいくらでもいるんだ」という訳である。という話に続けて、)

土地取上げの手段方法やからくりをいちいち書き立てていたら際限がない。(中 略)
青森県にはまた、多収穫の競争で一等賞を貰ったおかげで土地を取上げられたという小作人もいた。一反から前の二倍も三倍も米の取れるようになった土地、その土地から前同様の小作料を取って満足していることは、地主としては堪(た)えがたいことであったろう。(P198-199)

(引用、終わり)

この「地主としては堪えがたいことであったろう」という一言が、人間洞察として深いところまで届いていると私には思えた。

もちろん、この地主のやったことは理不尽きわまりない。農業経営者の取るべきリーダーシップという点から見ても、合理的な選択とは言いかねる。もしもの話、あなたの同僚のトップ営業マンが、突然、ヤキモチ焼きの社長にクビにされでもしたら、あなたはどんな気持ちがしますか?

だが、人間とはこういった理不尽、こういった不合理を敢えてやってしまう生き物なのである。そうする権力を持っていれば、誰だってそうする。もしも誰からも牽制されなければ、誰だってローマ皇帝ネロみたいになる。実際、「トップ営業マンが真っ先にリストラされてしまいました」程度のことは、巷間、どこの会社にでもある話なのである。私がそういうことをしないのは、私にはそういった権力がないからに過ぎない。

これが小林多喜二だったら、「この地主は卑劣な奴だ。これが搾取者の本質なのだ」とかナントカ、訳知り顔の倫理判断または価値判断にまで踏み込んでいたろう。

猪俣津南雄は「地主としては堪えがたいことであったろう」で止めた。ほんの少しの言い回しの違いだが、私はここに猪俣のフトコロの深さを感じる。公平さ、真実に対する忠誠心、または人間性に対する愛と言っても良い。

そもそも本書は、一体に、階級的憎悪(ルサンチマン、または貧乏人のヒガミ)の含有量が希薄なのである。これは左翼文献にしては珍しいことだ。そういうものは、ひた隠しに隠していても、自ずと現れずにはいないものなのだから。
猪俣は、ホントはとってもお育ちの良い「おぼっちゃまくん」だったのではなかろうか。

まあ、こういう気取りや飾り気のないところが、革マルみたいな、お高く留まっていて、切っても血も出ない公式主義者から、猪俣がアホ呼ばわりされるユエンなのだろうが。

(続く)