恐らく、ごくごく一部の興味しか引かないだろう話

藤村 甲子園 投稿日:2011/12/19 08:29

<書誌事項> 『置文21』編集同人・編「回想の全共闘運動(副題)今語る学生叛乱の時代」彩流社、2011年、318ページ

<本書の内容> (版元のサイトより)
第1章 いかに顧みるか●視点と方法
 1、導入─大学闘争を振り返ることの意義と意味      大石和雄
 2、いま全共闘をどう扱うか?方法の問題         神津陽
 3、学生運動と社会主義の結合としての全共闘運動     大石和雄
第2章 東京教育大●筑波移転闘争の記録
 1、かつて教育大闘争があった〈16の断章〉       水沢千秋
 2、全学闘と廃校と─東京教育大65~70年私史─     前田浩志
第3章 慶應大●68年・69年バリスト闘争の記録
 1、六八年・六九年─慶應大学バリスト闘争回想記     三森義道
第4章 日大●正義の百姓一揆の記録
 1、思想性なき正義の百姓一揆              太郎良譲二
 2、日大全共闘にとっての東大闘争共闘とは何だったのか  太郎良譲二
第5章 筆者座談会●全共闘運動を検証する
 大石和雄、佐野正晴、太郎良譲二、前田浩志、三森義道

<私  見> 本書は、中央大学、東京教育大学(現・筑波大学)、慶応大学、日本大学と、各校の「校風」、「風土」または「学生気質」の違いに踏み込んだ点が、従来の類書と比べて異色である。
学生運動にも各校それぞれのスクール・カラーが反映することは、体験的に知ってはいたが。

さて、本書によって初めて知った驚天の知見が二つあった。
今となっては、恐らくごくごく一部の興味しか引かない話だと思うが、ここにご紹介したい。

1. 東大・安田講堂の攻防戦は「アッツ島の玉砕戦」だったという話

東大・安田講堂の攻防戦は1969年1月18日から19日にかけて行われた。戦術的には学生側のボロ負けだったが、マスコミには大きく取り上げられて、以降は「学生運動の殉教・受難」のシンボルみたいになった。

証言者は日大全共闘OBの太郎良譲二氏。以下が証言である。

(引用、始め)

(藤村注;安田講堂攻防戦の際、他大学の学生は後方霍乱のため「神田カルチェラタン闘争」を仕掛けた。)

出発の際、執行部メンバーから「今日の日大全共闘の役割は、御茶ノ水防衛である」と厳命された。中央大学中庭での集会を終えてデモに入ろうとすると外は機動隊が幾重にも取り囲んでいた。一時の投石戦の後、機動隊が靖国通り方向に後退し、御茶ノ水一体(原文ママ)は解放区カルチェラタンと化した。当然、その勢いで安田講堂陥落阻止の支援に向かうと思っていたら、再度「日大全共闘は、防衛に徹しろ」と指示が来た。御茶ノ水交番前でたむろしていると、他のセクト諸君が順天堂病院方向に進撃し、機動隊と対峙している様が遠目に見えた。しばらくして、本郷まで様子を見にいった行動隊の一人が「本郷まで機動隊はいない」と言い、「東大に向かおう」と提案した。しかし、執行部メンバーからまたまた「御茶ノ水橋を渡るな」との指示。(実はこの頃、機動隊は催涙弾を使い果たしていた。日大情報局による無線傍受で情報をつかんでいた)結局、午後七時頃までぶらぶらして学部バリ(藤村注;バリケード封鎖された学部棟のこと)に戻った。

翌一・一九においても、日大全共闘は「御茶ノ水防衛」とのことで、東大本郷に向かうことはなかった。夕方に「安田講堂陥落」との情報が入り、気が抜けたように学部バリに帰った記憶がある。
当然、皆から不満の声が漏れ始めた。「なぜ東大に向かわなかったのか」

(中略)

「なぜ東大に向かわなかったのか」のなぞは、一○年ほど前から解き明かされてきた。その切っ掛けは、日大情報局担当だった学友から当時の無線傍受記録の一部を耳にしたことにある。前記のように一八日の午後には東大攻防戦で催涙弾を使い果たし、無駄に催涙弾を使うなと指示が出ていた。御茶ノ水一体(原文ママ)が解放区になっているのに機動隊が規制に来ない理由が判明した。

また、当日の学生側指揮本部は全学連各セクト幹部が仕切っており、特に日大全共闘を東大に行かせまいとした。なぜなら安田講堂は一八日の午前中には陥落させる予定で、各セクトは全国からパクラレ要員を募り籠城させていた。安田講堂は日大全共闘がバリケードを補強強化したお蔭で予想外に陥落が遅れた。機動隊との戦闘になれた日大全共闘が安田講堂の機動隊と直接対峙すれば更に陥落が遅れ、下手をすれば安田講堂のバリ撤去が中止されると考えていたのだ。味方に敵がいたのである。

何の目的で画策したのか。マスコミで大きく取り上げられることで大衆の関心を引き、七○年安保闘争勝利の布石を打ったと耳にした。この件は、旧ブント幹部や日大全共闘幹部の口から同じ内容を聞いた。知らぬは○○ばかり也。当事者日大全共闘ばかりか、少なからずいた東大全共闘のノンセクト学生が利用されただけだったのか。(前掲書、249~251ページ)

(引用、終わり)

1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島で、帝国陸軍守備隊2,700名が全滅した。
元々はミッドウェー作戦の陽動のため占領したので、米軍に反攻されたら一溜りもないことは分かっていた。

そして実に、このアッツ島攻防戦こそが我が「玉砕戦」の第一号であり、このため戦死者たちはマスコミを通じて軍神と称えられ、「必勝報国」(早い話が、戦争に行って死んで来いということ)のシンボルとなった。

なお、隣接するキスカ島にいた陸海軍守備隊6,000名は、霧に紛れての撤退に成功している。

安田砦に立て籠もった学生たちは神風特攻隊、またはアラモの砦のつもりだったのだろうか。彼らはその結果に満足したのか。

2.東大全共闘の実態は、セクトの寄り合い所帯だったという話

同じく、日大全共闘OB太郎良譲二氏の証言である。

(引用、始め)

数年前に山本義隆氏(藤村注;元東大全共闘議長。左翼業界では有名な人)から聞いたことがある。彼は次のようなことを言っていました。

「東大全共闘は、党派同士が共に闘うもので、対日共ということで体制を固める必要があり、それで誰か中立的なやつを議長にしようということで自分が指名された。東大全共闘というのは全共闘ではないよ。なぜって、自分は学生ではなく、助手という学校側の人間だよ、それが議長だよ」と。

それで私は、一・一八~一九決戦では各セクトが各施設に陣取っていたことへの疑問が解けたんですよ。(前掲書、281ページ)

(引用、終わり)

私が未だバカタレ学生だったころ、「60年代末頃、東大駒場キャンパスには新旧左翼・全セクトの支部が出揃っていた」と聞いて、内心羨ましく思ったものである。選択肢は多いに越したことはない、さすが東大駒場だけのことはあると。

だが、「ノンセクトが全共闘の主導権を握れず、セクトに牛耳られてしまった」という所に、私は東大生の悲しさを感じる。
頭が良過ぎる人間というのは、ナニをするにしても理屈や損得勘定が先行してしまうからだ。だから、東大駒場がセクト支部の花盛りになるのである。

なまじ頭が良いために、なまじ自分の知的能力に自信があるために、「学生運動をするんだったら、まずはセクトの言い分を聞いてみなくっちゃ」と思う。クソ真面目な人間ほどそう思う。そして、それが躓きの石になるのである。時には頭でっかちが禍して、ハムレットみたいにニッチもサッチも行かなくなるのである。

バカタレはなんにも考えずにバカなことをしでかす。だから、バカほど怖いものはないのである。まさに魯迅の小編「賢人と馬鹿と奴隷」にある通りである。

ちなみに我が母校は、隣近所の2校とセットで「ホーチミン大学」と呼ばれ、世間の顰蹙を買っていたが、利口にもバカにも徹し切れなかったのが我が母校のダメな所だと、本書を通読して思った。

それにしても、当事者たちの回想を読んで、60年代の運動シーンは未だ随分と牧歌的だったんだなと思わずにはいられなかった。

70年代以降の新左翼は、ただの人殺し、またはギャング集団と代わらないではないかと言われたら私には返すべき言葉がない。
(以 上)