思いて学ばざれば、すなわちあやうし(9)古事記偽書論争を概観する(6)(その後の顛末;国語学者の自己批判?)
(43)伊藤睦月です。今回は、守谷君が古事記本物論の唯一の論拠である、大野晋「日本語はいかに成立したか」など、国語学の分野において、異変が起きているらしい。これに関する三浦佑之の説明を紹介する。
(44)(引用開始)・・・ここ数十年のあいだに木簡類の発掘が膨大に集積され、その結果、近年になって日本語の表記に関する考えが根底的に変化したのではないかと思うからです。日本列島に渡来した文字の使用について、従来の、純漢文体の使用を経て変体漢文や音仮名表記の用法が可能になったという表記史の流れは、否定されてしまいました。「日本語の文を書くための基礎技術はな7世紀のうちに開発済みであった」(犬飼隆「文字から見た古事記」)というのですから、古事記の変体漢文がいつ書かれたのかという認識の幅は、以前では考えられないほど広くなったのです。
(45)テキスト研究を通して古事記研究をけん引してきた神野志隆光(こうのしたかみつ1946-東大大学大学院教授)でさえ、従来の文字表記史を「自己批判」せざるをえなくなりました。(「漢字テキストとしての古事記」2007年東京大学出版会)。これはとても大きな出来事ではなかったかと私にはおもえます。ことは日本語をどのように書くかという日本語表記史の根幹にかかわる前提が崩壊したといってもよいのですから。それを古事記に限定していえば、古事記の表記がどのように成立したかという道筋が、根源からくずれてしまったわけです。(三浦佑之「古事記を読み直す」282頁 2010年ちくま新書)(以上、引用終わり)
(46)伊藤睦月です。では神志野が「自己批判した」と三浦が指摘した部分を、その著書から引用する。少し長くなるが、大事なところ、日本国語学史上、「歴史的発言」といっても過言ではない部分なので、ついてきてください。(三浦は、ページ数まで明記していなので、てこずったが、私が該当部分と思うところを記す。専門家のご指摘を期待する)
(47)(引用開始)2「古語」「古伝」という根拠と「誦習」
(稗田)阿礼は、「古語」を伝え、「古伝」を保持した人ではなかったのかと、問われるかもしれません。いまも、そうした阿礼のイメージは強いと思われます。伝えられた「古語」「古伝」というとらわれから離れるために、この「誦習」の問題に相対さなければなりません。
(古事記)序文は、「稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰ひ録して献上れ(たてまつれ)とのりたまへば、謹みて詔勅の随(まま)に、子細に採りひりひつ。しかれども、上古の時、言と意と並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字においてはすなわち難し」といい、安万侶の書くことが、阿礼の「誦習」を受けたものとして言われているのですから、本居宣長が(中略)『古事記』に「上代の意言」を見るべきだという立場がここに確立させましょう。
「誦習」は、字義としては文献によって誦することの繰り返しの謂いであり、安万侶の述べるところ、すでに「記載」された本文があり、阿礼はこれに沿って正しい「よみ」を伝えたことになります。(小島憲之「上代日本文学と中国文学 上』塙書房1962年)文字テキストはあったのです。そのよみが阿礼の役割です。語り部のような、ただ「古伝」を伝えた人として、序文自体からして、言っているわけではないのです。まず、このことをはっきりさせましょう。
(以上、引用終わり。『漢字テキストとしての古事記』178-179頁))
伊藤睦月です。稗田阿礼は、まだ文字のなかった時代の物語を超人的な記憶力で語りつくし、それを太安万侶が聞き取って、文字に直した、と思い込んでいたのは、私だけ?故大和和雄や三浦佑之たちって、よほど器量が大きいのかな。それにしても1962年とはひどすぎる、とは素人ながら思います。
気持ちを落ち着かせるため、小休止します。
以上、伊藤睦月筆