思いて学ばざれば、すなわちあやうし(7)古事記偽書論争を概観する(5)その後の顛末

伊藤 投稿日:2024/10/06 07:14

伊藤睦月です。

 (32)江戸中期の賀茂真淵から、200年にわたって繰り広げられた、古事記偽書論争も、そろそろ終わりに入ったようだ。まず、2000年以降、論争の当事者の大半が、この世を去って論争を展開する論者がほとんど存在しなくなった。こういう、特に人文学の分野では長寿も実力のうち、というか、「生きてるだけでまるもうけ」(明石家さんま)ということが多く起こるらしい。また、守谷君が論拠としているらしい、国語学からの支援も事実上なくなり、新しい展開が始まっている。以下、古事記偽書説、本物説、両方の代表的な見解を示す。両説の違いがほとんどなくなっていることを読み取っていただきたい。

(33)古事記(序文)偽書説(三浦祐之:みうらすけゆき1946年ー)(引用はじめ)「序」の執筆者には古事記本文に対する認識不足があって、本文を筆録したのと同一人物であるとは到底感じられない、私にはそう感じられます。そのために古事記「序」は、本文とは別に、のちに付け加えられたのではないかと考えるようになりました。おそらくその時期は、大和岩雄(1928-2021)が主張するとおり、和銅5年(712)よりも100年ほどのちの9世紀初頭のことで、(新版「古事記成立考」)、太(多)氏またはその周辺に伝来していた書物を権威化するために、天武天皇の誦習命令から始まったとする「序」が偽造されたのではないかと考えています。その実行者をあえて挙げるとすれば、前に弘仁の講書で名前の出た多人長ということになるでしょう。

(33)(古事記本文について)誤解のないように言っておきたいのですが、「序」は9世紀に書かれたのに対して、本文は和銅5年より、数十年前、7世紀の半ばから後半には成立していたのが私の見解です。その理由は、上代特殊仮名遣いと呼ばれる音韻の研究によって、明らかにされている「も」という仮名の二種類の書き分けや神話・伝承にみられる古層的な性格などによって、本文の古さは保証できると考えるからです。出雲神話を大きく取り上げるのも、古層の歴史認識とかかわっています。(引用終わり。「古事記を読みなおす279-280頁(ちくま新書2010年)

伊藤睦月です。次は本物説を紹介します。少し小休止