属国日本史論の見取り図(伊藤ファンタジー)を提示します。

伊藤 投稿日:2024/12/08 11:59

伊藤睦月です。私の「属国日本史論」メモ、アトランダムに続けます。(過去分の重複、上書き御免)

1 「九州王朝説」(古田武彦)の採用(真理の整合説:下條竜夫)

(1)「邪馬台国九州説」、「邪馬台国所在問題」、「卑弥呼の正体」、「邪馬台国東遷説」、「広開土王との死闘」、「倭の五王あてはめ問題」「隋書倭国伝:タシリヒコ問題」、「旧唐書倭国伝、日本伝の併存」問題は、「九州王朝」の存在を前提としないと、うまく説明できない。(科学的方法論を採用した「考古学」・「文献学」の成果が裏付けつつある)

(1)ー2:「騎馬民族征服説」は「邪馬台国東遷説」のバリエーション。

(1)-3: 4世紀の畿内に「民族」はこなかったが、「騎馬」は伝わった。

(1)ー4:「騎馬」をいち早く採用した「ワカタケル」(雄略大王)が、畿内を統一して、勢力を「西進し」九州王朝を圧倒した。

(2)日本書紀は、「大和王朝」の歴史。

(2)-2:宮内庁公認の「皇室系図」は、ヤマト王朝の系図に九州王朝の系図が巧みに織り込まれている。

(3)天武・持統王朝の正統性を「国内の他の有力豪族向け」に主張(啓蒙普及)させるために、あえて、「ネイティブ漢文」で作成して、らしく装った。

(3)-2:日本書紀の「帝紀(大王の年代記)」と「旧辞(その他のエピソード集)」に、九州王朝の歴史書「日本旧記(古田武彦)」を巧みに混ぜ込んでいる。

(3)-3:中国正史の「倭の5王」と、日本書紀の「河内王朝、播磨王朝」の王たちは、別人とみると説明がうまくいく。

(3)の2:遣唐使は、日本書紀を唐皇帝に提出しなかった。(できなかった。「天皇号」承認問題。則天武后に「天皇」と名乗る度胸がなかった、とみるが、最初から提出する気がなかったとも解釈できる。

(3)の3:日本書紀完成後、ほぼ30年に1回、当時の貴族(官人)全員を対象に「日本書紀勉強会」を開催して啓蒙普及に努めた。

(3)の4:その時の講義レジメが「日本紀私記」(第2回目が有名な多人長の『弘仁私記』、人長は、この序文で、あんちょこ(古事記)の存在をばらした。)

(3)の5:『古事記』は、歴代講師(太安万侶の子孫)の「指導書(あんちょこ)」として、「多家秘伝の書」として書かれた。(だから、鎌倉時代の写本が最古であり、また、ネイティブ漢文でなく、当時の日本語である、変体漢文(万葉仮名)で作成。

(3)の6:日本書紀講義は、藤原北家の摂関政治が確立(960年ごろ)した後、その役割を終え、終了。

(3)-7:18世紀の国学者、賀茂真淵は、古事記の序文が平安時代初期の作だと見抜き、弟子の本居宣長に手紙で知らせた。本居宣長は、それを受け、序文は無視して、本文のみを分析、解釈して「古事記伝」を完成した。その後、現在まで、「古事記伝」が正統の学説となる。

(4)戦後、古事記偽書論争がおこったが、2000年代に至り、「序文は偽書、もしくは疑問。本文は本物」という解釈が主流となり、建前はともかく、論争の意味が事実上消滅した。現在では、偽書かどうかを争うのではなく、「本居宣長に帰れ」とのスローガンのもと、本文の内容研究が中心となっている。

(5)古事記作者についても、「稗田阿礼については、ペンディング、存在不明。太安万侶は実在が確実なので、彼が中心となって古事記を完成した」というのが学会主流。また、稗田阿礼の正体については、天武10年に結成された「日本書紀編集委員会」のメンバーのなかから、作者を推定する見解が現れ、定説になりつつある。

2 遣隋使以来、倭=日本は、中華帝国と対等関係を主張し、その後ずっとその態度を貫いた、というのが、戦前・戦後日本史学会の「定説」だった。

3 しかし、西嶋定生ら、「世界史の中で日本史を考える」東洋史学会は、「対等論」に正面から反論せず、史料、事実の提示で「違う」ことを示唆しつづけた。(1970年代から、はっきりと、主張した岡田英弘は、日本史学会、東洋史学会、両方からシカトされた)

4 2000年代に入り、学会定説の「対等論」に疑問を表明する研究者が現れた(中村修也、河上麻衣子など)また、「魏志倭人伝」に関して、岡田英弘説を採用する東洋史学者(渡邊義浩など)、考古学者(片岡宏二など)も現れだした。その決定版が1995年の副島隆彦「属国日本史テーゼ(仮称)」。

5 「漢委倭奴国王」、「親魏倭王」「倭の五王」までは、他の東アジア諸国と同じく、「朝貢・冊 封」による、貿易利権の独占と国内支配権の権威付け、図った。

6 遣隋使で、中華帝国と対等の関係構築を目指したが、失敗した。しかし、国内的には、対等関係構築に成功したふりをして、国内的にアピールし続けた。その後も同じ。実質的には、貿易利権(朝貢貿易)の確保と仏教文化、律令制度、など中国文明の輸入で満足した。

7 遣唐使でも、第7回で、「日本国号」は認めてもらったが、「天皇号」については、使用申請すらできなかった。その後の遣唐使でも、「天皇」ではなく、「スメラミコト」で終始せざるをえなかった。

8 「天皇号」が中華帝国に承認されるのは、北宋以降であるが、「対等」ではなく、「朝貢国」という前提であった。これ以降は、対中国交流の窓口は、天皇・公家から、僧侶、そして、武家に移った。鎌倉時代はその移行期。(蒙古襲来で初めて、窓口が問題となり、宋学移入のきっかけをつくった)

9 武家の時代になり、足利義満は、本音ベースで「日本国王」の冊封を受け、貿易利権を独占しようとした。この方針は、次代の「足利義持」以外の歴代の足利将軍たちに受け継がれ、将軍達は、明帝国に朝貢使を出し、日本国王の冊封を受け続けた。(1500年代になり、細川氏→大内氏に受け継がれた)

10 秀吉による、朝鮮出兵の講和交渉で、明側は、前例にのっとり、秀吉に「日本国王」の冊封をしようとしたが、拒否られ、逆切れされた。明側からすれば「不当な言いがかり」だった。

11 豊臣政権を引き継いだ徳川政権は、中国との国交を回復しようとしたが、「冊封問題」のため、実現できず、琉球王国に代わりに朝貢させることで、貿易実利を獲得することができた。この状態は、明治まで続いた。

12 明治になり、欧米式の外交関係を樹立しようとした。最終的には「戦争という外交手段」により、対等の関係を樹立できた。(1895年下関条約)その後の展開は、おおむね、高校日本史の教科書どおりに進行した。

13 中国の属国を脱した後は、大英帝国の属国となり、太平洋戦争の敗戦後、合衆国の属国となり、現在に至っている。

14 その後、「9.11終わりの始まり」以降、合衆国の求心力が弱まりつつあるが、その後の展開について、副島隆彦先生の「予言」が続いている。(佐藤優氏によれば「預言」だそうだ)

 以上、伊藤ファンタジーの見取図でした。今後、必要に応じて改定していきますし、この見取図のもと、枝葉、各論について、議論していきます。

ので、悪しからず。

以上、伊藤睦月筆