小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(2)
伊藤睦月です。前回の【536】の続きです。
まず、小林恵子の定義を再掲します。
騎馬民族征服王朝説とは、
(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から
(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、
(2)ー3:それまでの土着民を征服し、
(2)ー4:国家を建設した。
(2)ー5:このことは、巨大古墳や、
(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)
(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)
(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)
(4)伊藤睦月です。この定義は、江上の主張をよくまとめています。これに批判者がリマークするポイントがあって、
(2)ー7:江上のいう「騎馬民族」とは、騎乗をマスターした「遊牧民」を指し、「農耕民」(漢民族、日本人など)が、騎乗を覚えたり、文化遺物があっても、「騎馬民族」とは言わない。(江上波夫『騎馬民族』中公新書)この「騎馬民族」の定義は、融通無碍に論争する江上にしては、相当厳格な定義です。批判者の標的にもなりました。
(4)伊藤睦月です。この定義によると、江上説には、小林説との関連で、次のような特徴があります。
(5)「騎馬民族王朝征服」は4世紀(古墳時代)に起こったこと。
(6)江上波夫は、もともと考古学者であることから、考古学の成果を重視している。彼の主張をまとめた『騎馬民族国家』(中公新書)の論証のメインは古墳とその出土品分析である。
(7)また、江上が採用した、考古学分析は発表当時は、戦前からのオーソドックスなものだったが、のその後の発展、炭素21年代測定法など科学的分析手法の導入については、「消極的」(佐原真:元国立民族博物館副館長)である。
(8)そして、文献学的な面においては、自説を強調するにとどまっており、考古学のそれと比べ、実証に弱い。
(10)伊藤睦月です。以上のような方法を前提に、江上が描いた「騎馬民族征服」のストーリーはおおむね、次の通り。小林恵子が、どう継承、発展させていったかに留意。(以下佐原『騎馬民族はこなかった』1993年、江上『騎馬民族国家』などから、伊藤が要約します。)
(11)ー1:東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、
①扶余、②高句麗、③百済、の系統をひく王侯貴族が、「任那(みまな):伽耶、加羅」にきた。
(11)ー2:「任那」に「辰王朝」があった。
(11)ー3:崇神天皇(第10代)を主役として、騎馬民族軍団をもって、(朝鮮南部の)辰から、北部九州に上陸
(11)ー4:北部九州に扶余・韓・倭の連合の「日本国」をつくる。
(11)ー5:北部九州筑紫の勢力を加えて、
(11)ー6:応神天皇(第15代)のとき、東に進み、大阪平野へ進出
(11)ー7:ここで、日本列島の支配を目指して、「日本国」から「倭国」へと国号変更
(11)ー8:応神以降の「倭の五王」で、日本列島征服を成し遂げた
(12)ー9:雄略天皇(21代)の時代前後に「大和王朝」を始める。
伊藤睦月です。以上が江上説の概要、です。次回は、江上説にどのような批判がなされてきたか、を紹介します。細かすぎる議論かもしれないが、これでも乱暴なくらい、端折っています。あしからず。
以上、伊藤睦月筆
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