守谷論文を検証する(5)

伊藤 投稿日:2024/06/14 11:54

伊藤睦月(2145)です。私の不慣れで活字ポイントバラバラ

なことあらかじめ、お断りします。

さて、やっと、本来の検証に戻れます。1パラフレーズごとに検証させていただきます。

また守谷さんが答えやすいよう、できるだけ1問1答方式で書きますので、端的にお答えください。また、私なりの考え、回答案(代案)あがればお示しします。

【3128】十世紀末期~十一世紀初頭(源氏物語の時代)の藤原道長ら高級貴族の最大の悩みは『(旧)唐書』の出現である。

(1)①藤原道長ら高級貴族の・・・:(伊藤):藤原道長は旧唐書成立時には、生まれてないので例示としては、不適。「高級貴族」だけで十分。

②「最大の悩みなら」それを明示、あるいは示唆するような、史料をお示しください。

(2)『(旧)唐書』の成立は西暦945年、当時日本と中国は民間貿易が盛んになっており、宋船が盛んに博多を訪れるようになっていた。

伊藤:・・・894年(遣唐使の廃止)あるいは907年(唐滅亡)以降当時日本と中国は、とすれば、高校テキストとも整合します。

(3)『(旧)唐書』は成立ほどなくして日本に齎(もたら)されただろう。

(伊藤)これも傍証史料で結構ですからお示しください。なお。私、伊藤は「ほどなくしては」もたらされなかっただろう、という考えです。たぶん史料はみつからないと思います。旧唐書成立の1年後、946年に、編纂している後晋が滅亡しているから、と私伊藤は考えます。

(4)平安王朝は、それに激しい衝撃を受けたはずである。

(伊藤)激しい衝撃を受けたかは、私には確認できません。945年頃といえば、村上天皇の時代。平将門の乱があったりして、地方では騒がしくなっているようですが、都では、紀貫之「土佐日記」、「伊勢物語」「竹取物語」が成立し、969年の安和の変で、藤原摂関家の最期のライバル、源高明(大河ドラマの藤原道長の2番目の奥さんの父親)を失脚させ、藤原摂関家の全盛期が始まろうとしていたころです。

もし衝撃を受けたなら、書名くらいは、高級貴族や高級僧侶の日記にでてきそうなものだ。旧唐書は17世紀、清の乾隆帝が始めて正史に加え。四庫全書に納めており、四庫全書の一部は、写本が民間に出ていますから、日本にもたらされたのは、江戸時代だと、私、伊藤は、考えております。そのころは、考証学がさかんだったから、旧唐書の資料的価値も評価されたのではないかな。

(5)『(旧)唐書』は、日本記事を倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の併記で作っている。

(伊藤)旧唐書(東夷)は、「倭国」そして「日本」の順で書かれております。「日本国」でないことに注意。細かいようですが、唐王朝は「倭」を「国」と呼び、「日本」は国をつけておりません。「日本国」となるのは「宋史」からです。これは思いのほか、あとから効いてきます。それから「筑紫王朝」「大和王朝」の区別の出典をお示しください。

(6)663年の「白村江の戦い」までを「倭国伝」で作り、八世紀初頭703年の粟田真人の遣唐使の記事から「日本国伝」を始めている。

(伊藤)「倭国」(伝は列伝の伝ですから、「倭国伝」は標記として不適切です。それに「倭国」は648年で記述が終わっており、663年の白村江の戦いの記述が一切ありませんので、前半は間違いです。後半はは「日本国伝」を「日本」にすれば、そのとおり。守谷さんにおかれては、この「空白の15年」についてご説明ください。

(7)『(旧)唐書』は、七世紀の後半に日本では代表王朝の交代(革命)があったと言っているのだ。筑紫王朝から日本国(大和王朝)へと。

(伊藤)日本語の「革命」には、2通りの意味、「易姓革命(政権交代)」と「社会革命(レボリューション:フランス革命やロシア革命)があります。ここでは、文脈上、前者の意味で使っておられると拝察しますが、それでよろしいですか。これは確認です。

筑紫王朝から、日本国(大和王朝)へと、とありますが、「日本国」ではなく「日本」です。理由は、旧唐書では、「日本」と表記しているからです。当時の世界覇権国の基準からみて、「日本」は、「国」とは言えなかったのでしょう。帝国ー属国論の視点からするとそうなる、と思います。「王朝(ダイナスティ)というのは、「同じ家系の人が連続してその国を治めている状態」をいいますから、この語を使用することは、守谷さんの主張とも整合します。

(8)日本の王朝の生命線は、「万世一系」の天皇の歴史です。日本には革命など一度も起きた事がなかった、と云う歴史です。その歴史だけが天皇(王朝)の日本支配の正統性を保証している。

(伊藤)これは、話盛りすぎ。「万世一系」という言葉(思想)が初めて公式に登場したのは、1889年(明治22年)大日本帝国憲法(明治憲法)第1条(大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス)です。

平安時代には「万世一系」という言葉(思想)がありませんので、この用語を使用するのは不適切です。

この「万世一系」の思想は、憲法政治において、欧米のキリスト教のような「基軸」が必要と判断した、伊藤博文が、スタッフである井上毅などの国家主義者たちに命じて、「現人神」とともに、過去の歴史や、水戸学などの研究成果を取り入れ。人工的に作ったものです。

もちろん、昔から、似たような考え方はありました、日本書紀(天ジョウ無窮の神勅」とか、「神皇正統紀」、あるいは、一姓がずっと統治していることを誇りに思ったり、などは、よく知られていたようです。(北宋太宗皇帝とチョウネンとの筆談)しかし、ないものはない。

(9)『(旧)唐書』は、この生命線を侵し、天皇の正統性を否定する。貴族たちの高貴性の否定である。王朝を支える貴族たちが『(旧)唐書』の存在を放って置くことは出来なかった。

(伊藤)まず、旧唐書にそこまで影響力があったとは考えていません。私は旧唐書は江戸時代に清から入ってきたと考えております。正史に加えられたのが、その頃ですから。また「万世一系」が「生命線?」になったのは、明治時代からだと考えています。「貴族の高貴性」というのはよくわかりませんが、当時藤原摂関家は(旧唐書が成立したころは、ほかの有力貴族はいなくなっていた。)自分の娘に、天皇の男子を産ませることで、みずからの権力基盤を固めていますから、(外戚政治)外国の歴史書よりも、こちらの方がよほど「高貴性」を担保しています。守谷氏の過剰反応、だと思います。守谷さん、あなたは何を心配されているのですか。

 それから、守谷さんは何か誤解されているようですが、当時から江戸時代まで、天皇は、中国に正統性を求めていません。よろしいですか。中国皇帝に正統性を担保してもらうには、二つの方法があります。一つは中国に朝貢し、属国として「倭国王」「日本国王」に柵封してもらうこと。(このとき金印などをその証としてもらいます)これが最もオーソドックスです。もう一つは「青史(正史)に名を残す。」チョウネンが怪我の功名でやってのけたやつです。中国正史に日本側が希望する歴代天皇の名前や事績を載せてもらう。当時もそしていまも。中国人(君子=支配階級)は、正史にどう書かれるかを異常に意識するそうです。(小室直樹、岡田英弘)また日本人でもそういう人がいたらしく、作家の司馬遼太郎は、徳川(水戸)慶喜が「朝敵」の汚名を着ることを異常に嫌がったのは、歴史にそう書かれたくなかったからだ、と指摘しています。遣唐使のときでも、日本は朝貢(ご機嫌伺)はしていますが、柵封は受けていません。わが国で初めて柵封(日本国王)を受けたのは、1402年足利義満です。(1369年懐良親王という説もあり)

つまり天皇家は中国皇帝をまったくあてにしていません。あてにしていたのはむしろ、足利氏や徳川氏といった武士たちの方です(副島隆彦説)武士たちが天皇の正統性に対抗するために、中国皇帝に使者を出し、正当性を担保してもらい、あわせて貿易利権の独占を図ったのです(勘合貿易、朱印船貿易)(高校テキストでは後者が強調されています)

(10)703年の粟田真人の遣唐使以来、度重なる遣唐使たちの一番の使命は、唐朝に「万世一系」の日本の歴史を何とか認めてもらうことにあったのです。

(伊藤)これも間違い。遣唐使朝貢だけして柵封をうけていませんから、守谷さんが、いわれるような成果を上げていません。柵封を受けなかったのは、あくまでも日本側であって、中国皇帝ではありません。こうやっってやせ我慢を重ねてきたのだと副島隆彦先生は主張しています。それに当時そもそも「万世一系」という言葉は、この時代に存在しませんので、ナンセンス。

(11)平安王朝は、或る程度それが成功を収めているという思惑があったのかもしれない。

(伊藤)成功も何もそんな思惑はありません。中国正史では、宋史より前は、東夷(野蛮人扱い)が続いていましたから。日本側の独りよがりでしょう。

(12)しかし、それは完全に裏切られた。裏切られたからと言って放って置ける問題ではなかった。「万世一系」の天皇の歴史こそが日本の王朝の生命線なのですから。

(伊藤)誇大妄想。

(13)『日本歴史年表』(歴史学研究会編・岩波書店)から引用

982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。

983年、奝然(ちょうねん)、宋商人の船で宋に渡り、皇帝に拝謁。

988年、僧嘉因らを宋に派遣する。

(引用終わり)

『宋史』日本伝より

雍熙元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。***

(伊藤)これらに関しては以前の投稿で説明済み。

(14)後数年にして、奝然その弟子嘉因を遣わし、表を奉じて来り謝せしめて曰く「***

(引用終わり)

奝然と云うのは、東大寺の一学僧でした。その一学僧が、宋に渡るや直ちに皇帝に拝謁を許されているのです。尋常なことではありません。

『宋史』の書き方は、銅器十余事の献上が主役で、『職員令』・『王年代記』などまるで付録のような扱いです。

銅器十余事の中には、982年、陸奥国に貢上させた黄金が詰め込まれたとみるべきです。

988年、奝然の弟子・嘉因に持って行った献上物の豪華であったことは空前絶後です。『宋史』は、その一々を記録しています。

道長ら日本の王朝人は、『(旧)唐書』に代わる新たな『唐書』の制作を嘆願したのだと思う。

(伊藤)これらに関してもすでに説明済み。一言加えるとしたら、藤原道長のようなリアリストは上記のような誇大妄想家ではない。

(15)次回は、宋朝の思惑を考えたい。続く。

(伊藤)どんなファンタジーを語ってくれるのか、楽しみです。私の論考以上のものを期待しています。

(以上 伊藤睦月筆)