守谷論文を検証する(4)「一学僧」と中国皇帝との謁見は、不法入国者の取調記録だと考えれば、わかりやすい(守谷氏への再反論に切り替えます)

伊藤 投稿日:2024/06/12 11:14

伊藤睦月(2145)です。今回は「宋史日本国(外国七)」(あえて伝はつけません。伝は列伝の伝であり、日本の記事は書、とか志(各地域レポート、ニュース記録のようなもの)とかに分類されるものだから。正史の中の扱いは低い。これからも日本側から新唐書の編纂を依頼した、なんてのは、中国側からすれば、夜郎自大、中二病も甚だしい、といいうことになります)にそって、日本の「一学僧」チョウネンと北宋太宗皇帝との謁見についてレポートします。

と、ここまで書いたところで、守谷さんから、うれしい反論をいただいているので、そちらのレスを優先します。守谷さん、私の相手をしてくださって、まことにありがとうございます。

1)私は、白村江の戦いの存在そのものを否定していない。

  守谷さんは、旧唐書の列伝を引用されておられる。私は、「倭国伝」(講談社学術文庫)のみしか手元にないので、守谷さんが旧唐書の列伝からの引用を提示されている。それはそれで、ああそうですか、といだけです。なぜなら、私は白村江の戦いそのものを否定しているのではない。守谷さん、「倭人伝」をお持ちなら、206頁を開いてください。そこには、「(貞観)22年(648年)に至り、・・・」で旧唐書(旧唐書東夷倭国)での述が終わっています。663年の白村江の戦いまでたどり着いていません。つまり旧唐書(倭国)には、白村江の戦いは一切記述されていません。それなのに、「663年の白村江の戦いまでを「倭国伝」で作り」ということは成立しません。これは見解の相違ではなく、史料にのってるかのっていないか、という問題ですから、そう指摘したまでのこと。何を憤慨しておられるのか、理解できません。

 まだあります。「新唐書東夷日本」には、初代天皇(天御中主)から始まる歴代天皇の紹介がメインです。また、粟田真人(703年)から始めている、とされていますが、隋の煬帝への遣隋使の記述もありますから、これも間違い。(264頁)これは、見解の相違ではなく、史料に書いてあるか、ないかだけの確認問題ですから、これを私見にあうように、書いてもない記述を書いてあるかのように主張されること、これを学問の世界では、やってはいけないことです。ご注意ください。

ちなみに、上記旧唐書は、白村江の戦いの前で記述が終わってますから、当然ですが、新唐書も白村江の戦いの記事は一行もありません。これをどう説明されるのか。

ついでに言えば、新唐書東夷百済に、白村江の戦いの記事が出てきます。(227頁)が同書「新羅」には一行もありません。これはどう説明したらよいのか。

ちなみに、列伝は、紀(皇帝の事績)とセットで(紀伝体)、皇帝の偉業に貢献した人たちの事績を集めたのがメインです(史記では例外があります)。要は劉仁軌という皇帝の家来の手柄話で、要は白村江の戦いはその程度の扱いです。守谷さんの投稿を見てる範囲では。

また、太平御覧については、私はすぐにはアクセスできませんので、該当部分を掲示していただければ、たすかります。なお、守谷論文の検証はまだまだ続きます。

また、これに対する、コメントは今後は、ふじむら掲示板にお願いします。「重たい掲示板」に載せるようなレベルの議論ではない。

(伊藤睦月筆以上)