守谷論文は、実証史学の立場からすれば、「不可」である。(1)遣隋使、遣唐使の派遣目的
「権威主義者」とよばれた、伊藤睦月です。守谷健二が私を権威主義者とよんでいるが、もしそうなら、副島隆彦先生はさしづめ、「権威者」となるだろう。もしそれを先生が知ったらどう思われるだろう。もう30年以世界レベルの知識人として、世の「権威者」と闘ってこられた、副島隆彦先生が「権威者」とは。想像するだに身震いする。
それはともかく、守谷健二のお笑い論文(重たい掲示板(3152,3150)以下「守谷論文」と表記する。)を題材にして、私の考えを述べる。
(1)守谷論文は、粟田真人をトップとする、遣唐使の派遣目的を「天武天皇に始まる王朝の由来(日本の歴史)を唐朝に説明して、(王朝の正当性を)認めてもらうことであった」とするが、西嶋定生を筆頭とする「実証史学」(以下総称する)は、そうとは考えない。①王朝の正当性を認めてほしいなら、なぜ、過去の「倭の五王たち」のように、「冊封」を受けなかたったのか。(西嶋たちは、冊封を日本側が断った、としている)➁唐朝に説明した歴史書は、守谷論文では、この時点でほぼ完成していたとする「日本書紀」とするが、それなら、その史書献上の記事が、中国側、日本側双方の記録にないのはなぜか。➂粟田真人が、初めて中国正史に登場するのは、「旧唐書日本」だが、そこに「日本書紀」の献上ないし説明したという記事が全く出てこないのは、なぜかについて、実証的に説明することができない。(なお、後代の「宋書日本国」では、日本の歴史書を北宋皇帝に提出、説明したという記事が掲載されている)
(2)この「遣唐使」の派遣目的は、実証史学の立場で、答えが出ており、ほぼ定説化している。
すなわち、遣唐使、その前の遣隋使もそうだが、派遣目的は、①「中華帝国と対等の関係を構築すること」その手段として、702年の粟田真人訪中以降は(第7回)➁日本が自主的に決めた「日本」という国号、と「天皇」という称号使用を認めてもらうこと、である。
(3)その努力は、836年(第15回)の遣唐使まで続けられた。粟田は、「日本」国号使用許可を取ることには、成功したが、「天皇」称号使用許可は失敗して、「天皇称号問題」は、次の北宋時代まで認められることはなかった。
(4)では、どうやって、粟田が「日本国号」使用許可をもらったのか、粟田が登場する「旧唐書日本」では、守谷が記すように、中国側から種々疑われながら、中国正史に掲載されているが、粟田の外見や人柄に好感持たれたようだ。それでも、天皇号使用は認められなかった。なぜか。これも実証史学の立場からは答えが出ている。それは、粟田が拝謁した「中国皇帝」はだれだったかを考えれば簡単にわかる。ヒントは、粟田は「天皇号」使用を認められなかったのではなく、怖くて「天皇」と言えなかった、「中国皇帝」の前では名乗れなかったのである。それを1980年代の実証史学が証拠付きで解明したのである。
次回に続く。以上、伊藤睦月筆