劉徳高の足跡について
伊藤睦月です。日本書紀の講談社学術文庫版の日本語訳では、「劉徳高」が省かれていますが、中公文庫版(電子書籍版)では登場します。その部分を、私のコメントなしに、引用します。
(引用はじめ)
(1)天智4年(665年)9月23日に唐国は、朝散大夫キ州の司、馬上柱国「劉徳高」等を遣わしてきた。(等とは、右戎衛郎将上柱国「百済禰軍」とチョウ朝散大夫柱国「郭務棕」とをいう。計258人とをいう。7月28日に対馬に着き、9月20日に筑紫について、22日に上表文をおさめた函(はこ)をたてまつった。)
(2)冬10月の11日に、ウジ(京都府宇治市)で大掛かりな閲兵を行った。
(3)11月13日に劉徳高らに饗宴を賜った。
(4)12月14日に劉徳高らに物を賜った。
(5)この月に、劉徳高らは、帰途についた。
(6)この歳、小錦守の君大石等を大唐に遣わした。しかじかと伝える。
(等とは、小山坂合(さかい)部の連石積、大乙吉土岐弥、吉士針間、をいう。おそらく唐の使いを送るためであろう)
(引用終わり)
伊藤睦月です。伊藤としては突っ込みどころ満載なのだが、ここは我慢して(笑)、ただこの記事は、近江遷都の前年なので、唐の使いは、どの京に入ったのだろう。難波京でなくて、明日香か?劉徳高(文官)、百済禰軍(武官)が上柱国で正式の使者、郭務棕は柱国でナンバー3だが、実務上は郭が取り仕切っていたのであろう。270人余の従者は、文官の使者として多くもなく、少なくもなし。実際後年、郭務棕らが計2000人の兵を連れてきますが、最初の来日で講和が成立したなら、なぜ2000人の兵を連れてきたのか。
伊藤睦月です。2054様のいう、「懐風藻」(751年成立)に劉徳高が登場する場面です。
(引用はじめ)
一、淡海朝(あわみちょう=近江京)大友皇子二首
皇太子(大友皇子)は、淡海帝(天智天皇)の長子なり。
魁顔奇偉、風範弘深、眼中栄耀、顧瓣偉華、唐の使、劉徳高見て、異なりとして曰く、「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」と。
劉徳高の発言部分を和訳(この皇子の風采・骨柄を見ると、世間並の人ではない。日本の国などに生きる人ではない」
伊藤睦月です。この部分をもって、講和の場面、と思ったとしたら、相当おつむが平和な方だなあ、と思います。見え透いたお世辞を真に受けるなんて、当時の天智天皇友皇子、日本側は、まずいなかった、と思います。それは、665年に旧百済の皇太子と新羅王金法敏に、唐軍の司令官、劉仁軌が近いの言葉(講和条約文)を作りますが、それは「城下の誓い」で、百済にとって屈辱的な内容であり、気楽なものではありません。私はサンフランシスコ講和条約を連想した。(引用はじめ)
(1)昔、百済の先王(義慈王、余豊璋の父親)は、順逆を顧慮することなく、隣国に誠意を示さず、身近な者と睦まじくせず、高句麗や倭国(原文は倭)と組んで新羅を侵略し、村や町を血祭りにあげた。
(2)唐の天子は、罪のない人民を憐み、外交使節に命じて百済と誼みを結ばせようとしたが、百済の先王は、険しい地勢を後ろ盾とし、唐からの道のりが遠いのをよいことにして、唐の使節に対して高慢無礼であった。
(3)これを聞いた皇帝は激怒し、かく討伐し、かく平定した。
(4)但し、亡国を再興して絶えた王の血統を継がせることは、王たる者の昔からの一貫したやり方である。
(5)それゆえに、前(さき)の太子隆を立てて、熊津都督とし、その祖先の祭りを維持させ、新羅に付き従って長く、その友好国となり、好誼を通わせ、怨恨を去り、天子(中国皇帝)の命をありがたくいただいて、長く中国の外藩(属国)となるようにさせたのである。
(6)右威衛将軍・魯城県公の劉仁願(劉仁軌の上役だが、格は仁軌のほうが上)は今親しくこの盟約締結の場に臨んだ。
(7)今後、心変わりして兵力を発動し、軍勢を動員することが、あったなら、英明なる神々は、これを見そわせはしない。
(8)多くの災害がふりかかり、その子孫は絶え、国家は守りを失うであろう。
(9)この盟約をゆめゆめ犯すことのなきよう。
かくして、鉄板に金字で刻んだ盟約の文をつくり、新羅の廟中に納めた。(新唐書東夷百済:講談社学術文庫訳)
伊藤睦月です。この盟約文、特に(5)以下を読んで、まともな(お互い対等な)講和条約と思うものは、はっきり言おう。馬鹿だ。それでもにこにこ笑いながら、はいつくばって、お礼を言って受け入れなければならない。そして、招宴をして裸踊りのひとつも披露しなければならない。敗戦国が結ばされる「講和条約」は、昔も今もこんなものだ。(吉田茂ならやりそうだ)
劉仁高たちが、中大兄皇子と大友皇子に突き付けた唐皇帝の内容はどのようなものだったのだろう。日本書紀は日本側が作成しているので、何も記載されていない。いつものせこいごまかしだ。白村江の敗戦から2年しかたっていない。「新羅、亡国の百済と仲良く」講和の誓文の内容を知りたいものだ。
日本書紀は、唐皇帝まで提出する重要アイテムなので、それに今回の講和の件が記載されていない、ということは、さすがにまずいだろう。せめて代替わりするまで、ほとぼりがさめるまで、唐太宗から高宗、そして、(一時唐王朝が絶える)則天武后の代まで、遣唐使を派遣できなかったのではなかろうか。それで、30年後になってしまったのではないか。
2054様のファンタジーを展開していくと、こうならざるを得ない(それよりも私の余豊璋捕縛のファンタジーのほうが面白いと思いますが。)
(以上、伊藤睦月筆)